B第三話「失敗しました」


第三話「失敗しました」

 十二月に入ると、日はさらに短くなった。診察室の窓から見える空は、午後四時を過ぎる頃にはもう、薄いインクを流したような色に染まり始める。古い電気ヒーターが、足元で小さく唸りを上げていた。

 A.S.さんは、先月よりも厚手のグレーのコートを着ていた。首元には濃紺のウールのマフラーを、几帳面な等間隔のひだを作って巻いている。彼女は椅子に座ると、冷えた指先を一度強く握り、それから膝の上に置いた。

「失敗しました」

 それが、彼女の最初の一言だった。
 K医師はペンを手に持ったまま、その言葉の響きを待った。部屋の隅にある加湿器が、規則正しい水音を立てる。

「詳しく、聞かせてもらえますか」

「先週、久しぶりに友人から食事に誘われたんです。銀座の、少し良いお店でした。以前の私なら、きっと楽しみにしていたはずの場所です」

 彼女は視線を落としたまま、静かに言葉を継いだ。

「でも、そこに向かう電車の中で、ふと気づいたんです。私は今、楽しもうと努力している、と。義務みたいに、感情を動かそうとしている。そう思ったら、急に足が動かなくなってしまって。結局、駅のホームのベンチに座ったまま、体調が悪いと嘘をついて断りました。……せっかくの機会を、台無しにしてしまった。あんな嘘をつくなんて、最低ですね」

 彼女の語り口は淡々としていたが、その指先はわずかに震えていた。「感情の薄れ」という霧の中に、自責という鋭い棘が刺さっているのが見えた。

 K医師の喉元まで、「それは仕方のないことですよ」という言葉が出かかった。精神科医として、あるいは一人の人間として、その場を穏やかに収めるための適切な、そして無難な言葉だ。
 だが、彼はその言葉を飲み込んだ。

 今、ここで彼が「大丈夫です」と言えば、彼女の「失敗」は、医師という外部の力によって上書きされ、消去されてしまう。それは彼女の体験を「なかったこと」にする行為に等しい。
 K医師は、あえて口を閉ざした。

 沈黙が診察室を満たした。
 それは気まずい沈黙ではなく、何かが決定されるのを待つような、濃密な静寂だった。窓の外では、街灯が一つ、また一つと点り始めていた。

 一分、あるいは二分が過ぎた。
 A.S.さんが、ゆっくりと顔を上げた。

「……先生」

「はい」

「今、気づいたんです」彼女の声は、先ほどよりも少しだけ明瞭になっていた。「私はずっと、銀座のお店のことを考えていました。行けなかった場所、失敗した自分、ついた嘘。……でも、そうやって頭の中で『あの日』を繰り返している間、私は今のこの部屋の音を、ちっとも聞いていませんでした」

 彼女は耳を澄ますように、少しだけ首を傾げた。

「ヒーターの音。加湿器の水が跳ねる音。外を通る車の音。……不思議ですね。失敗した、と思っている間だけ、私は今のこの部屋にいる感じがします。嘘をついて、動けなくなった自分を、ありのままに見ているような」

 K医師は、ペンを机に置いた。
 彼女は今、自力で「今、この瞬間」に降り立った。理論が教える「現在との接触」という目的地に、彼女は「失敗」という入り口から、自らの足で辿り着いたのだ。

「失敗の中に、居場所を見つけたのかもしれませんね」

 K医師がそう言うと、A.S.さんは少しだけ驚いたような顔をして、それから「そうかもしれません」と、短く答えた。

 診察が終わった。
 彼女が立ち上がり、いつものように丁寧にコートのボタンを留める。最後の一つのボタンを穴に通し終えた時、彼女は窓の外を一度だけ見て、「もう、真っ暗ですね」と言った。

「来月、また来られますか」

「はい。来ます」

 ドアが閉まり、彼女の足音が廊下の向こうへ消えていった。

 K医師は、一人になった診察室で机に向かった。
 机の隅には、あのメモが置いてある。

『最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる』

 彼は万年筆を取り出し、その言葉の下に何かを書き加えようとした。
 彼女が見つけた「失敗の中の現在」について。あるいは、自分の比喩が届かなかったからこそ生まれた、あの密度の高い沈黙について。

 だが、彼は書くのをやめた。
 ペンを持ったまま、彼は窓の外を見た。十二月の夕方の光は、もう完全に消え去り、ガラス窓には自分の疲れた顔と、診察室の灯りだけが映っていた。

 言葉にする必要はない、と彼は思った。
 今、この静けさの余韻の中に留まること。
 それが、今の自分にとっても、最も必要なことのように思えたからだ。

 K医師は万年筆をキャップに戻し、そのまま背もたれに深く体を預けた。
 暗い窓の向こうで、冬の街が静かに息づいていた。

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