精神医学的大衆的知識の普及

現代では心理学的、精神医学的大衆的知識が普及していて、
自分の体験を語るとき、それらの知識に大きく汚染されている。

自分の体験を正確に生々しく語るのではなく、
どこかで仕入れた大衆的知識を混ぜながら語る。

治療者にとってそれは曇りガラスで、
その向こうにある真の体験を想像することになる。

また、ガラスの曇り具合を確認することで、
現在の大衆知識はどうなっているのか推定したりもする。

体験の粒度と言われたりするが、
自分の感情や思考をどのくらい精密な網の目で識別できるかという問題がある。

簡単な話、座れるものなら何でも椅子という人と、
チェア、ストゥール、ソファ、カウチなどを区別できる人とは、
内的世界が違うだろう。

抽象的な語彙で言えばさらに難しいところがあり、
他人の心の中の語彙の分類表や境界線について、
関心がない人がほとんどだろう。
漠然と、話が通じない人だと感じて、話をやめる、それだけだろうと思う。

言葉を商売にする人もいるものだから、
いつでも何かしら新しい言葉を売っている人もいて、
その時々で、言葉の網の目が変化したりもする。
そのようにしてさらに話は複雑になる。

例えば、うつ病、双極性障害、シゾフレニー、境界性人格障害、ADHD、アスペルガー、
こうしたものは、ショーウィンドウに見本が並べられているわけでもなく、
ただ大衆的な言葉によって定義されているだけでる、
大衆的に消費される言葉は何の責任もなく、ただコマーシャル的に流れてゆくだけのものである。

世間で言うところの、それらの病気の状態と、
現実に病気の人として現れる状態はずれがあるのだけれども、
そうすると、世間のあいまいで流動的で商売的な定義と、
専門家としての定義がずれることになり、
自体を複雑にしている。

簡単なのは、専門家が世間の定義を採用して、世間の定義の一部分を受け入れている患者さんと話がうまく通じるようにすることではあるが、それはいったい何をしているのだろうとも思う。

しかし治療してほしいのは一般大衆的知識で組み立てられたOSで動いている脳を持っている人である。

実際にそのOSで動いているならそれでも良いが、たいていはそうではない。世間が宣伝しているOSなど機能しているわけではなく、別のOSで動いている。しかしそんなことは理解しない。円周率は3だとネットに書いてあるし、わたしも実感としてそう思う、だからわたしの円周率は3です、というわけで、そこを前提条件として、治療が開始される。

体験粒度が十分に精密な人であれば、円周率は3ではなくて、3.1415くらいかもしれないよと説明もできて、納得もしてくれるが、そうでない人もいる。私の円周率は3だと私の内定体験として思うから、3に効く薬として○○が欲しいなどというような話になり、しかしそれでも、話の全体を壊してしまわないようにしながら、患者さんに不利益が起こらないように配慮してゆく。

世間の言葉というものは宣伝次第なのだと思う。

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体験粒度が精密であれば、精神的悩みから遠ざかるかと言えば、必ずしもそうでもない。精密に悩んだりする。

治療しやすいか、治りやすいかといえば、それもさまざまである。細かければ細かいなりに、言葉が隣まではみ出していたりすることもあるし、混乱が起きることもある。

悩みの質が違うし、治療の内容が違うということはあると思う。

大雑把な人から見れば、だいたい同じでしょ、どっちでもいいよね、などと判定されるのかもしれない。それが世間で言う、精神的健康ということだと言われれば、そういう面も確かにあると思う。

平均的である、大多数の側の一員であるということは、悩みが一つ減ることだ。

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