宇宙に一人だけで存在するときにも生きる意味があると強弁する理論を書いてみる。
じぶんでも強弁だと思っている。
宇宙空間には、ビッグバンの残滓と思われる背景輻射というものがある。
ビッグバンの時の電磁波が現在も残っていて、医学標本の電子顕微鏡写真を撮影したりするときに、微妙にノイズとして入り込む。
それはビッグバンの証拠であると言われている。
遠い星からの光、例えば、130光年離れている星からの光が地球に届いて、それを観測したとする。その光は130光年前に存在したものだ。
この二つの事例から考える。
例えば、私は朝起きて、紅茶を飲みながら、朝の風を浴びている。レースのカーテンが揺れている。
この瞬間は失われない。
太陽光がある。物質はそれを反射している。私も反射している。紅茶もテーブルもカーテンも反射している。
反射した光はひじ用に微弱になるが、消えることはない。現在の測定技術では測定不可能となるだけだ。消えない。多分、130光年たったとして、130光年離れた場所の観測者に届くはずである。途方もなく微弱ではあるが。
これは、途方もなく確実な存在証明である。過去の存在証明である。それが宇宙そのものに刻み付けられ。永久に消えることはない。実質消えたとみなしてよいほどの微弱さではある。しかし、厳密に言えば、存在している。どんなに昔の、どんなに小さなことも、宇宙空間のどこかに、微弱な電磁波として記録が保持されている。
これは、私にとっては、個人的な、慰めである。無にならない。無に還元されない。再生する方法は今はないが、消えてはいない。存在している。
すべては流れ去り、無に帰するという観察は昔のものだ。実際、バックグラウンドラジエーションは各自に存在していて、電子顕微鏡写真に写り込む。同じように、私の今朝の、太陽光を跳ね返したことによる電磁波も、保存されて、どこか遠くの星の、電子顕微鏡の写真に、バックグラウンドラジエーション・背景輻射として映り込むだろう。すべては消えない、全ては保存される。
これは私を大いに慰める。
