第四話「見ているのは誰ですか」
一月の診察室は、十二月より静かだった。年が変わると音が変わる、とK医師はなんとなく思っていた。根拠はなかった。ただ、廊下を歩く人の足音も、受付の電話も、少し遠い感じがした。新しい年というのは、まだ自分のものになっていない服のように、どこかぎこちない。
予約時刻から七分が過ぎていた。
K医師は待っていた。急いでいない、というより、急ぎようがなかった。診察室に一人でいるとき、K医師はいつも何かをしているか、何もしていないかのどちらかだった。今日は何もしていない方だった。
机の上のメモ用紙を、特に読むつもりもなく、目だけで確認した。「最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる」。文字はいつもと同じ場所にあった。
七分、という時間を、K医師は長いとも短いとも思わなかった。ただそこにあった。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
A.S.さんが入ってきた。いつもより少し早足だった。コートを脱ぎながら、「すみません、電車が」と言いかけた。
言いかけて、止まった。
K医師は「どうぞ」と言った。椅子を、という意味だった。それ以上の意味はなかった。
A.S.さんは椅子に座った。コートを膝の上に置いた。いつもは丁寧に畳んで背もたれに掛けるのに、今日は畳まなかった。
「遅くなりました」
「七分です」とK医師は言った。「誤差の範囲内です」
誤差、という言葉がなぜ出てきたのか、K医師にはわからなかった。気の利いたことを言おうとしたわけでもなかった。ただ出てきた。
A.S.さんは少し、ぽかんとした顔をした。
それからK医師も、自分が言った言葉を、一拍遅れて聞いた。誤差の範囲内。診察室で使う言葉ではなかった。しかし言ってしまったものは仕方がない。
「最近、どうでしたか」
A.S.さんはコートを少し持ち直した。「年末年始が、あって」と言った。
「家族と」
「はい。夫の実家に行って、私の実家にも行って。忙しかったというより、疲れた感じです」
「疲れ、というのは」
「気を遣いすぎるんだと思います。怒っているわけじゃないんですが、ずっと何かを観察している感じで。相手が今何を求めているか、自分は何をすべきか、ずっとそれを考えていて、気がついたら年が明けていた」
K医師はそれを聞いた。聞きながら、A.S.さんが使った言葉——観察している——が、頭の中でかすかに光った。光った、というのは比喩だが、それ以外にうまい言い方がなかった。
「ずっと観察していた、というのは、誰が観察していたんでしょう」
A.S.さんは少し首を傾けた。
「誰が、というのは」
「相手が何を求めているか観察していた、というとき、その観察をしていたのは誰だろうと思って」
A.S.さんは黙った。
黙り方が、これまでと少し違った。何かを探している沈黙ではなく、何かに気づきかけている沈黙だった。K医師にはその違いがわかったが、確信はなかった。確信がないまま、待った。
「……私、だと思いますが」
「疲れていた自分とは、別に、ですか」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
窓の外で、何かの音がした。工事か、車か、よくわからない低い音だった。一月の午後の音だった。
「そうかもしれないです」とA.S.さんはゆっくり言った。「疲れていたのは、観察されていた方で」
K医師は返さなかった。返す必要がなかった。
A.S.さんは続けた。「観察している方は、あまり疲れていなかったかもしれない。ずっと動いていたから」
「動いていた」
「はい。止まらなかった。疲れていても、次に何をすべきかを考えていたから、止まれなかった」
K医師はペンを持ったが、また書かなかった。書く代わりに、「それは今も」と聞いた。
「今も」とA.S.さんは繰り返した。「今も……います。ここでも」
「この部屋でも観察していますか」
「はい。先生が何を求めているか。私は何を言うべきか」
K医師はそれを聞いた。少し、胸が痛んだ。痛む、というのは正確ではないかもしれないが、それに近い何かだった。A.S.さんが今正直なことを言っている、という感触と、その正直さがここまで続いていたという事実が、同時に届いた。
「今、この部屋に、観察している自分がいる」とK医師は言った。「その観察している自分を、今、気づいている自分もいますか」
A.S.さんはしばらく黙っていた。
沈黙が、少し変質した。
部屋の空気が、わずかに変わった気がした。K医師の気のせいかもしれなかった。
「……います」
声が、少し低かった。これまでのA.S.さんの声より低かった。
「何かを言わなければいけない、と思っている自分がいて。その自分を、見ている自分がいます。今」
K医師は何も言わなかった。言わないことが、ここでは何かを意味した。
しばらくして、A.S.さんが言った。
「変な感じです」
「どんな」
「広い感じ。少し」
K医師はそれを聞いた。広い感じ。自分がかつて読んだ教科書にも論文にも、その言葉はなかった。しかしA.S.さんが今経験しているものの輪郭として、その言葉はどこかきちんと合っていた。
「広い感じがしているのは、誰ですか」とK医師は聞いた。
A.S.さんは少し考えた。そして、笑った。
小さな笑いだった。おかしい、という笑いではなく、何かに気づいた、という笑いだった。一月の診察室の乾いた空気の中で、その笑いはとても静かだった。
「わかりません」とA.S.さんは言った。「それが、わかりません」
「わからなくていいと思います」とK医師は言った。
A.S.さんはまた少し笑った。今度は先ほどより少し長かった。笑い、というより、息が漏れた、という感じだった。それでも笑いだった。
K医師も、かすかに笑った。笑うつもりはなかったが、そうなった。
診察室に二人の笑いが、短く、重ならずにあって、それから消えた。
消えた後の静けさは、消える前の静けさとは少し違った。K医師はそれを、言葉にしないまま確かめた。
診察が終わり、A.S.さんはコートを着た。今日は畳まなかったコートを、帰りには丁寧に袖を通した。マフラーを巻いた。グレーの、先月と同じもの。
「来月」
「来月」
ドアが閉まった。
K医師は廊下に出なかった。今日は、出なかった。
机に戻って、カルテを見た。今日書いたのは、それほど多くなかった。言葉の少ない診察だった、とも言えたし、必要なことは起きた、とも言えた。
カルテの端に、「広い感じ」という四文字があった。括弧はつけなかった。つけると何かが変わる気がした。
K医師はしばらくそれを見ていた。
誰が見ているのか、などとは考えなかった。考えなかったことに、後から気づいた。
窓の外は暗かった。一月の夜は、十二月よりさらに早く来る。K医師は立ち上がって、コートを取った。今日の診察は、A.S.さんが最後だった。
エレベーターを待ちながら、K医師はふと思った。「誤差の範囲内です」と言ったとき、A.S.さんがぽかんとした。あの顔が、何かの始まりだったかもしれない。
あるいは、遅れてきたこと自体が。七分の遅れ。それをK医師は長いとも短いとも思わなかった。ただそこにあった、と思っていた。
しかし今思えば、あの七分の間にも、K医師は何かを待っていた。何を待っていたのかは、うまく言えなかった。
エレベーターのドアが開いた。
