第三回診察:さらに一週間後
設定:同じ診察室。午後。田中サクラ、3回目の来院。入室時の足取りが、初診のときより少し軽い。表情には、まだ疲労感があるが、目に少し光がある。椅子に座るとき、自分からバッグを脇に置いた。
入室直後・近況確認
医:「今日はどうぞ。……先週から今週、どうでしたか?」
患:「……なんか、少し、変わった気がします。うまく言えないんですけど」
医:「うまく言えなくていいです。その『少し変わった気がする』、もう少し教えてもらえますか?」
患:「先生に言われた、考えが出てきたとき名前をつける、というのをやってみたんです。最初はうまくできなくて、またミスした、とか、だめだ、とかいう考えが出てくると、やっぱり引きずられてしまってたんですけど。でも、二、三回、あ、また〈だめだ〉という考えが出てきた、って言えた瞬間があって。そのとき、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、楽な感じがしたんです」
医:「それは、大事な体験をしたと思います。ちょっとだけ、ほんの少しだけ、というのが、正直なところだと思う。……それを一週間、やってみた。それだけで十分です」
患:「でも、できない時のほうが多くて」
医:「それで正しいんです。できない時のほうが多い、というのが普通です。できた瞬間が、二、三回あった。それが今週の収穫です」
症状の変化確認
医:「体のほうはいかがですか?眠れていますか?」
患:「眠れるようになってきました。夜中に目が覚めることも、減ってきた気がします。朝もそこまで早く目が覚めなくて」
医:「それは良かった。気分のほうはどうですか?」
患:「気分は……まだ重たいんですけど、先週よりは、少しだけましかな、という感じがします。朝、起き上がるのが、少し楽になったかもしれない」
医:「薬が少しずつ効いてきている感じかもしれませんね。まだ本格的な効果ではないですけど、方向としては良い方向だと思います。食欲はどうですか?」
患:「少し戻ってきた気がします。昨日、久しぶりに、ご飯がおいしいと思えて」
医:「ご飯がおいしいと思えた。……それ、小さいことじゃないですよ」
患:(少し照れたように)「そうですか」
医:「仕事のほうはいかがでしたか?」
患:「……今週は大きなミスはなかったです。上司との関係は変わらないですけど、なんか、少し、距離を置いて見られる瞬間があって。あの人はそういう人なんだ、みたいな」
医:「距離を置いて見られる瞬間があった。……それも、先週練習したことと、つながっているかもしれませんね」
ACT:今この瞬間への接触(Contact with the Present Moment)
医:「今日は、先週までの話を少し広げながら、新しいことも話したいと思います。……田中さん、一つ聞いてもいいですか。今、この瞬間、体の感じはどうですか?」
患:「……今、ですか?」
医:「そうです。今、この部屋で、椅子に座っている。体のどこかに、何か感じるものはありますか?」
患:(少し間を置いて)「……肩が、少し張っている気がします。あと、呼吸が、浅いかな」
医:「よく気づきました。……今、気づく前と後で、何か変わりましたか?」
患:「……言われて気づいたら、少し、肩の力が抜けた気がします」
医:「それが大事なことです。私たちは、たいてい、今ここにいません。頭の中では、昨日上司に言われたことを反芻しているか、明日またミスするかもしれないという不安の中にいるか、どちらかにいることが多い。……今ここに戻ってくること、それ自体に、意味がある」
患:「……でも、考えてしまうのは止められないですよね」
医:「止められません。止めようとしなくていい。ただ、気づいたときに、今ここに戻ってくる。それだけでいい。……呼吸が浅いと気づいたとき、田中さんは今ここに戻ってきた。それが、練習です」
患:「……練習、というのが、なんか、気が楽です。うまくやらなくていい、ということですよね」
医:「そうです。うまくやることが目標じゃない。……これは、マインドフルネスと呼ばれる考え方と重なっています。難しいことじゃなくて、今ここで、自分に何が起きているかに、少し気づく、ということです」
ACT:文脈としての自己(Self as Context)
医:「少し、続きの話をしてもいいですか。……田中さん、先週、『私はだめな人間だ』という考えと、少し距離を取れた瞬間があったと言いましたね」
患:「はい」
医:「そのとき、考えを外から見ている田中さんがいた。考えを見ている、その田中さんは、だめな人間でしたか?」
患:「……(少し考えて)……見ている私、ですか。それは……だめ、とは違う気がします」
医:「そうです。考えを見ている自分は、考えそのものじゃない。……田中さんの中には、いろんなことが浮かんでは消えていく。感情も、考えも、記憶も。でも、それらが浮かんでは消えていくのを、ずっと見ている部分がある。それは、傷つかない部分です」
患:「……傷つかない部分」
医:「嵐の中の、空みたいなものです。雲が激しく動いていても、空そのものは、ずっとそこにある。田中さんの中にも、雲がどれだけ激しくても、空そのものにあたる部分がある。……うつのしんどさは、雲です。消えないかもしれないし、今はとても厚い。でも、田中さんという空は、それとは別にある」
患:(しばらく黙っている)「……なんか、それを聞いて、少し泣きそうになりました」
医:「泣いていいですよ」
患:(目が潤む)「……ずっと、自分全体がだめになった気がしていたので。でも、見ている自分がいる、と言われると、なんか……」
医:「その感覚を、大切にしてください。今日、ここで感じたことです」
ACT:価値(Values)
医:「少し落ち着いたら、続けてもいいですか」
患:「……はい、大丈夫です」
医:「先週、田中さんが、お客さんから感謝されたときが好きだった、と言っていましたね。あれから、そのことを考えましたか?」
患:「……少し。なんで好きだったんだろう、と思って」
医:「なんで好きだったんだと思いますか?」
患:「……役に立てた、という感じがするから、かな。自分が何かをして、それで誰かが助かった、という感覚が、好きなんだと思います」
医:「役に立てた、誰かが助かった。……その感覚は、今の仕事の中に、まだありますか?」
患:「……ほとんどない、今は。上司との関係で頭がいっぱいで。でも、ゼロじゃないかもしれない。先週、後輩の子が、資料の作り方を教えてくれてありがとうございます、と言ってくれたときは、少し、その感じがあった気がします」
医:「先週、あった。……それは大事なことです。田中さん、ACTで言う『価値』というのは、目標とは少し違います。目標は、達成したら終わる。でも価値は、方向性です。コンパスの針みたいなもので、それ自体に向かい続けることに意味がある」
患:「コンパス」
医:「田中さんの価値は、今日の話から言えば、誰かの役に立つこと、誰かを助けること、かもしれない。その価値は、今の状況でも、完全には消えていない。後輩に教えたとき、少しあった、と言いましたよね」
患:「……はい」
医:「価値に向かって動くこと、それを、ACTでは大切にします。完璧にうまくいかなくていい。しんどい中でも、自分の価値に沿って、小さく動いてみること。それが、回復の力になる」
患:「……でも、今はしんどくて、その余裕がなくて」
医:「そうです。だから今は、余裕がないことを認めながら、余裕ができた瞬間に、少しだけ動けばいい。後輩に教えたこと、それがすでに、そういう動きだったと思います」
ACT:コミットされた行動(Committed Action)
医:「今日、一つだけ、具体的なことを考えてみたいんですが。……田中さん、今週、自分の価値に少しでも沿った動きを、一つだけやってみることはできそうですか?大きなことじゃなくていい。ほんとに小さなことで」
患:「……後輩の子に、また何か、声をかけてみる、とかでしょうか」
医:「それで十分です。むしろ、それがいい。……ただ、一つ確認させてください。それをやるのは、上司に認められるためですか?それとも、自分がそうしたいからですか?」
患:「……(考えて)自分がそうしたいから、だと思います。後輩の子が、なんか、一生懸命なので」
医:「それです。それが、価値から来る行動です。評価されなくても、誰にも気づかれなくても、自分の価値に沿っているから動く。それがACTで言うコミットされた行動です」
患:「……上司に認められるためにやると、認められなかったとき、またしんどくなる」
医:「そうです。田中さん、鋭い。……上司の反応は、田中さんがコントロールできない。でも、自分が価値に沿って動くかどうかは、少しだけ、自分の側にある」
ヘキサゴン全体の鳥瞰
医:「今日で三回目になりました。ここまで話してきたことを、少し整理させてください。……図にするとわかりやすいんですが、ACTには六つの柱があります。今日まででその全部に、少しずつ触れてきました」
医師は手元の紙に、簡単な六角形を描きながら話す。
医:「一つ目は、受容。感情や考えを、追い払わずに、そのままにしておくこと。田中さんが怒りを感じて、それを責めていた話のところです。
二つ目は、脱フュージョン。考えと自分がくっついてしまうのを、少し引き離す。〈だめだ〉という考えが浮かんだとき、名前をつけて少し距離を取った、あの練習です。
三つ目は、今この瞬間への接触。過去の反芻や未来の不安から、今ここに戻ってくること。今日、肩の張りに気づいたとき、それをやりました。
四つ目は、文脈としての自己。考えや感情が浮かんでは消えていくのを、ずっと見ている部分がある。嵐の中の空の話です。
五つ目は、価値。自分にとって何が大切か、コンパスの針。誰かの役に立ちたい、という田中さんの価値の話です。
六つ目は、コミットされた行動。しんどくても、価値に沿って、小さく動いてみること。後輩に声をかける、というのがそれです」
患:「……六つ、全部、ちゃんと話してきたんですね」
医:「田中さんが、ちゃんと話してくれたからです。……どれか、特に響いたものはありますか?」
患:「……見ている自分がいる、というのが、一番、なんか、刺さりました。あと、価値はコンパスだ、という話も」
医:「それは、田中さんの今に、必要なことだったんだと思います」
現状の位置づけと今後の見通し
医:「今の田中さんの状態を、少し整理させてください。薬はまだ完全には効いていないけれど、方向は良い。睡眠は改善している。気分はまだ重いけれど、少し動き始めている。仕事のミスは今週は少なかった。……これは、回復の入口に立っている状態だと思います」
患:「入口」
医:「そうです。まだ中には入っていない。でも、扉が少し見えてきた、くらいの場所。……これからも、一週間ごとに来てもらいながら、一緒に続けていきましょう。ACTの六つの柱は、今日で一通り紹介しましたが、理解することが目的じゃない。生活の中で、少しずつ、使えるようになっていくことが目的です」
患:「……使えるようになるのに、どのくらいかかりますか?」
医:「人によって違います。でも、田中さんはすでに、先週、二、三回、できた瞬間があった。それは、すでに使い始めている、ということです」
患:(小さく微笑む)
クロージング
医:「今日も、よく話してくれました。……最後に一つ聞いていいですか。三回来てみて、今、どんな感じがしますか?最初に来たときと比べて」
患:「……最初は、ここに来ること自体、怖かった。自分がおかしいんじゃないか、という気がして。でも今は、なんか、ここに来ると、少し整理できる感じがします。自分のことが、少しわかってくる感じ、というか」
医:「それを聞けて、よかった。……田中さん、一つだけ覚えておいてください。回復は、まっすぐな線じゃないです。また来週、しんどい週だったということもある。でも、それは後退じゃない。そういうものだ、と思っておいてほしい」
患:「……はい。なんか、それを言ってもらえると、少し楽です」
医:「では、また来週。何かあれば電話してください」
患:「ありがとうございました」
田中サクラは、初診のときより少し背筋を伸ばして、診察室を出た。
処方(この日)
睡眠の改善が継続しているため、睡眠薬は現状維持。抗うつ薬は3週目に入り、効果が出始める時期に差し掛かっている。
- スボレキサント(ベルソムラ)15mg 就寝前 継続
- エスシタロプラム(レクサプロ)10mg 朝食後 継続
次回以降、気分・意欲のさらなる改善を確認しながら、必要であれば増量(20mgへ)を検討。
【臨床的注記:三回を通じたACTヘキサゴンの導入経緯】
| 回 | 主に導入した要素 | 具体的な介入 |
|---|---|---|
| 第一回 | 脱フュージョンの萌芽 | 「考えを止めようとするほど強くなる」という逆説の提示 |
| 第二回 | 脱フュージョン・受容 | 考えと事実の区別、感情への名前づけ、怒りを罰しないこと |
| 第三回 | 今この瞬間・文脈としての自己・価値・コミットされた行動 | 身体感覚への気づき、空の比喩、コンパスとしての価値、後輩への行動 |
三回の診察を通じ、ヘキサゴンの六要素は、教授されるのではなく、患者自身の語りの中から引き出される形で導入された。これはACTの基本姿勢と一致する。治療者は概念を押しつけるのではなく、患者がすでに体験していることに、概念の言葉を後から与える役割を担った。
患者はまだ回復の途上にある。薬物療法の効果は出始めているが完全ではなく、職場環境は変わっていない。しかし、自己との関係、感情との関係、価値との接触において、三週間で明確な変化の萌芽が生じた。これは、ACTが症状の除去を直接の目標とせず、症状があっても価値に向かって動ける柔軟性(心理的柔軟性)の育成を目標とすることと、整合している。
