うつ病ACT診察例B 2-3

第二回診察の場面を描きます。

この回では、薬の効果(身体的な安定)を確認しつつ、前回の「泥沼」の話を掘り下げ、具体的なテクニックである「脱フュージョン(思考との距離を置くこと)」の導入、そしてACTの全体像を示す「ヘキサゴン(六角形)」の地図を患者に見せ始める段階を想定しています。


精神科診察室:第二回(一週間後)

登場人物:

  • 佐藤医師
  • 田中さん

(田中さんが少し落ち着いた様子で、しかし依然として疲労感を含んだ表情で入室してくる)

佐藤医師: 「こんにちは。一週間、いかがでしたか? お薬の飲み心地や、眠りの具合などはどうでしょうか。」

田中さん: 「……こんにちは。ええ、少しだけ……。寝つきは相変わらず悪いんですけど、以前よりは途中で目が覚めることが減って、少し長く眠れている気がします。体が少しだけ軽いかな、と思う朝もあります。」

佐藤医師: 「それは少し、前進ですね。眠りの質がわずかでも改善しているのは、回復への大切なステップです。……一方で、お仕事での『考え事』や、心の重さはどうでしたか?」

田中さん: (ため息をつきながら)「……変わらないです。朝、会社に着くと、またあの上司の顔が浮かんで、『今日もミスをしたら……』って、頭の中がずっとそのことでいっぱいです。結局、先週も一度、メールの件名に宛名を入れるのを忘れてしまって……それでまた自分を責めて、すごく落ち込みました。」

佐藤医師: 「(静かに頷く)……そうですね。眠りが少し良くなった一方で、思考の『しつこさ』はまだ強く残っている。……田中さん、前回お話しした『泥沼で足掻くと、余計に沈んでしまう』という話を覚えていますか?」

田中さん: 「はい、覚えています。」

佐藤医師: 「今週のそのメールの場面も、まさにその状態だったのかもしれませんね。『ミスをしてはいけない』という強い思い(思考)から逃れようとして、逆にその恐怖に意識が釘付けになって、結果として本来の作業に集中できなくなってしまう……。これを私たちは、『思考と一体化している(フュエージョン)』と言ったりします。」

田中さん: 「一体化……。はい、まさに自分そのものが『ミスをする人間だ』って思っている感じなんです。」

佐藤医師: 「今日は、その『一体化した状態』から、少しだけ外側に身を引くための、簡単な練習を提案してもいいでしょうか? 思考の内容を変えるのではなく、思考との『距離の取り方』を変える練習です。」

田中さん: 「……距離の取り方……。どうすればできるんでしょうか?」

佐藤医師: 「例えば、今まさに浮かんでいる『私はミスをする人間だ』という考えを、そのまま口に出してみてください。……はい、どうぞ。」

田中さん: 「(少し戸惑いながら)……私は、ミスをする人間だ。」

佐藤医師: 「ありがとうございます。では、その文の頭に、『……という考えを持っています』という言葉を付け足して、もう一度言ってみてください。『私はミスをする人間だ、という考えを持っています』と。」

田中さん: (一呼吸置いて)「……私は、ミスをする人間だ……という『考えを持っている』、と。」

佐藤医師: 「どう感じますか? 最初に言った時と、少しだけ違いはありますか?」

田中さん: (少しの間、言葉を探す)「……なんとなく、少しだけ……。さっきまでは、それが『私そのもの』だったんですけど、今は……なんだか、頭の中にそういう『文字』が浮かんでいるような……客観的に、眺めているような感覚です。」

佐藤エ医師: 「素晴らしいですね。今、田中さんは『思考(内容)』と『自分自身(観察者)』の間に、小さな隙間を作ることができました。これが『脱フュージョン』というプロセスです。泥沼の中にいる自分を、少し上から眺めているようなイメージです。」

田中さん: 「……あ、そうですね。ちょっとだけ、息がしやすい感じがします。」

佐藤医師: 「(笑顔で)その小さな隙間を広げていくことが、私たちの治療の目標になります。実は、この『隙間を作る』こと以外にも、心のしなやかさを取り戻すための要素がいくつかあるんです。……今、ここに簡単な図を描いてみますね。」

(医師は、診察室のメモ用紙に、六角形の形を描き始める)

佐藤医師: 「これは『ヘキサゴン』と呼ばれるものです。心の柔軟性を支える6つの柱です。田中さんが今体験した『脱フュージョン』も、この一つです。他にも、『今の苦痛をそのまま受け入れる(受容)』とか、『自分が大切にしたい方向を見定める(価値)』といった要素があります。」

田中さん: (図を見つめながら)「……六角形……。こんなにたくさんの要素があるんですね。私に全部できるか、不安です……。」

佐藤医師: 「もちろんです、一度にはできません。一つずつ、パズルのピースを埋めていくように進めていきましょう。まずは今日、この『言葉の付け足し』を、仕事中にふとした時に試してみてください。『あ、今自分は、〜という考えを持っているな』と気づくだけで十分です。……次回は、もう一つの柱である『受容(アクセプタンス)』について、もう少し詳しくお話ししましょう。」

田中さん: (少しだけ、前向きな眼差しで)「……わかりました。……やってみます。少しだけ、やってみたいと思います。」


【解説:この診察で行われたACT的介入】

  1. 進捗確認(身体と心理の分離):
    薬剤の効果による「睡眠の改善」を認めつつ、依然として残る「思考との融合(フュージョン)」をアセスメントしました。
  2. 脱フュージョン(Defusion)の実践:
    「私は〜だ」という断定的な思考に、「〜という考えを持っている」というラベルを貼るテクニックを導入しました。これにより、患者が自身の思考を「真実の事実」ではなく、「単なる頭の中の出来事」として観察し始めるプロセスを開始しました。
  3. ヘキサゴン(Hexaflex)の提示:
    治療の全体像を視覚的なモデル(六角形)として提示することで、現在の苦痛が「解決すべき問題」ではなく、「トレーニング可能なスキルの一部」であることを示しました。これは患者のコントロール感を取り戻す効果があります。
  4. スモールステップの提案:
    「気づくだけでいい」とハードルを極限まで下げることで、回避(新しいことに挑戦するのを避けること)を防ぎ、コンプライアンスを高めています。
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