男女の平等は当然のことだ

男女の平等は当然のことだ。
理性があって、理想がある場合、男女は、平等であるはずで、基本的人権の点でも同等に扱われることがよいだろう。
さらに先進諸国では、若年人口の減少もあって、労働人口を保持するためにも、女性の職場進出が勧められてきた。
それは当然のことである。

一方では、少子高齢化が急激に進行している。少子化に対しての対策がさまざまに議論されるが、根本的には是正することができていない。

むしろ、男女の機会均等の推進や女性の社会進出の推進が、少子化に拍車をかけているようにも思われる。

つまり、理性的に考えて、理想を求めると、少子化するらしい。そして資本主義社会としてはとても困ることになる。

これは、男女の観点から理想の社会を構想すれば、その結果として、少子化が進行して、それは望む結果ではないということになる。
これを反転させれば、少子化を食い止めるためには、男女の平等をあきらめたほうがいいということにならないか、心配にもなる。
反転させることが何を意味しているのか、不正確だと思う。

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男女を平等にする。教育を平等にする。いいことだ。機会を均等にする。当然いいことだ。家事も分担する。仕事を持つことも平等である。生活費も分担する。いいことだ。異論はない。
男性は従来は家事を女性に頼っていた。それではいけないので、男性もできることは分担する。当然できることが多い。さらに家電が進歩して、掃除、洗濯、皿洗い、調理などいろいろやってくれるし、冷凍食品やレトルトが進歩している。総菜は売っているし、配送もしてもらえる、クリーニングも届けてもらえるし、お掃除サービスもある。
家事は自分でしないでも、お金を出して、専門業者に任せることができる。そうすればGDPも増えるという付録もついてくる。自分で掃除しないで、業者に掃除させれば、GDPが増えるとして、それは何の意味があるのかと、議論もあるのかもしれない。
とにかく、そんなふうにして、男女は平等で、機械化が進み、専門業者に掃除や調理を任せると、男性にとって、女性は必須ではなくなる。
伝統的な男性の一部は、妻としてよりも、母親として女性を必要としていた面がある。自分をお世話してくれる女手としての存在である。自分は子供であり、妻は母親である。
しかし現代の高学歴女性は、男性のお世話をするよりも、社会で職業人として活躍したい。家事は分担するか、外注する。私はあなたのお母さんではないと宣言する。内助の功は辞退したい。
すると男性は、お母さんでないならいらないと結論する。非婚化して少子化する。同居していてもただの同居人である。

男女の平等を唱えていたのは、理念からではなく、現実の資本家の要求として、女性も働いたら、会社はもっと儲かると考えた側面がある。そのために教育して働いてもらった。その結果が少子化だった。資本家は今度は少子化を是正しろと言い出すが、労働者としての女性を教育してきたのであって、すぐには変えられない。急カーブも急ブレーキも無理である。労働力としてあまり期待されていないような人たちがたくさん子供を産んでいる。次の世代の労働力の質を考えると、資本家にとっては、それもよくない。高学歴女性にたくさん子供を産んでほしいと思っている。それは無理だと現在突きつけられている。

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男女平等にできないのが生殖である。
妊娠してホルモン環境が変わり、出産して、さらにホルモン環境が変わり、育児にかかりきりになる。ヒトの赤ん坊は生物としては異例なくらいの未熟児であるから、育児に大変に手間暇がかかる。女性は育児にかかりきりになる。その延長で、夫の面倒も、親の面倒も、女性が見てきた。子供に食事を食べさせる延長で、夫にも親にも兄弟にも、食事を作ってきた。洗濯も掃除もその他も、みんな面倒見てきた。その名残は今でもあって、男性としてはその方が都合がいいので甘えている面がある。男性が不慣れでへたくそなので女性が我慢できないという側面もある。
そうしたことの総合として、女性は仕事も家事も引き受けることになる。農業時代から女性はそうやってきたのだから何も新しいことでもないが、男女平等と言われて教育されてきたのに、これでは全く平等ではない。男性の二倍働けと言われているようなものだ。おまけに子供に何か問題でもあったら母親のせいだと責められる。これでは割に合わない。さらにおまけに義理の親の介護まで頼まれそうになる。ダメでだらしのない夫は演歌で歌われるのに、ダメでだらしのない女は演歌でも居場所がない。
こんなふうに男が甘えていても生きられるのは、生殖における非対称性があるからである。
性行為における欲求や快感や満足や報酬系や、いろいろ考えると、根本として、女性の場合は、妊娠出産子育てと続く時間と労力と命の危険が果てしなく大きい。それを引き受けないと遺伝子が残せない。それに比較して、男性は責任が小さく、極端な場合には、性行為だけして消えてしまっても、遺伝子は残ることになる。この差が根本にあると言われる。
極端に言えば、今後の10年、責任を取る運命になるかも知れない、場合によっては死ぬかもしれないと思って、性行為をする女性と、社会的責任はあるが、それは制度として責任があるとみなされているだけであって、根本的には無責任かもしれないし、無責任になって次の女性を妊娠させた方が遺伝子が残せるかもしれない立場の男性と、根本的に違うのだと指摘されている。細かく言えばいくらも反論はあるが、基本を言えば、その通りだと思う。
そうは言っても、今のところ、妊娠と出産は女性にしかできないから、どうすることもできない。妊娠出産を外注することもできるが、現状では限られた人にだけ可能である。
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結局、そんなこともあんなこともあって、晩婚化となり非婚化となり少子化となった。
脳原理とDNA原理の対立といっていいかもしれない。
男女平等とか基本的人権とかは脳原理である。それはDNA原理の延長にあるものだが、ある点を超えると、DNA原理に反するようになる。現在はそのある点を超えてしまっていることになる。

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