何か手作業をしていたり、歩いていたりして、脳に余裕ができたときに、ふと思い浮かぶ情景や言葉がある。 長い時間を生きている人であれば、様々なことが思い浮かぶのだろうと予想されるのであるが、個人的な経験でいえば、それほど多様なものではないように思う。
もちろん、自分でも思いもかけないような、過去の一場面が思い浮かび、こんな記憶が脳に格納されていたのかと驚くことは多い。だから、思い浮かぶ記憶の情景が数少ないと断じるのも間違いだとは思うのであるが、そのような留保をつけた上で、それでも、思い浮かぶ情景は、自分の人生の内容に比較すると、かなり数少ないように思うのだ。
繰り返し思い浮かび、自分の思考や感情の基線を構成するものは、実は数少ないと思う。 そのことは、精神医学的治療の場面でも実感していて、人が考えていることや感じていることは、可能性としては無数にあってよいはずなのに、どうしたことか、数少ないテンプレートを使いまわしていることが多いのである。
だからこそ、精神療法が有効なのだと言える。
無限に多様であってよい可能性があるのに、実際は、かなり限定された思考と感情が繰り返されている。それが普通の人間である。病気の場合にはなおさら、テンプレートは少なくなっているように思う。逆説的に、だからこそ、治療が有効なのである。