単純化される思考と、断片化された知識の時代に

単純化される思考と、断片化された知識の時代に

インターネットが情報の主戦場となった現代、人々の思考や感情は以前にも増して単純化し、容易に扇動され、誤情報にも騙されやすくなっている。こうした傾向は、情報の「断片化」と密接に関係しているのではないかと感じる。

かつて、知識は体系的な構造のなかに位置づけられていた。法学や経済学、内科学や物理学、数学に至るまで、それぞれには全体を貫く枠組みがあり、知識の一つひとつはその体系のどこに属するかによって意味を持った。教科書という全体像が頭に入り、そこに新たな知識を位置づけることで理解が深まった。体系全体が見渡せるからこそ、部分が生きる。時に画期的な発見があれば、その体系全体が書き換えられ、新たな教科書が編まれた。

しかし、ネット時代における知識は、そうした構造を失いつつある。熱が出たらどうするか、妄想があったらどうすればよいか――そうした一行知識が無数に流通している。だが、そのほとんどは、知識の体系の中でどこに属するのか不明瞭である。その曖昧さの中にこそ、商品コマーシャルや政治的プロパガンダが入り込む余地がある。知の地図を持たない者ほど、表層的な印象や断片的情報に左右されやすくなる。もちろん、教科書自体が偏っていることもあるので、別の形で騙されているとも言えるのだが。

それでも、体系的な知識が持つ耐久性には一理ある。自然科学のように厳密な検証が可能な分野でも、捏造や誤解は避けられないが、時を経て淘汰されて残る知識には、ある程度の信頼を置くことができる。

ここで考えたいのは、人間の脳がそもそも「情報を捨てる装置」である、という点だ。例えば、視覚情報は網膜を経て神経信号に変換される段階で、大量の情報が捨象される。その後、脳内でさらに単純化され、有用なパターンとして認識される。時には視覚と聴覚などの異なる感覚情報が統合されて、複雑な認知が生まれることもあるが、基本的には「目的に応じて情報を削ぎ落とす」ことが脳の本質的な働きであるように思われる。

これは芸術にも通じる。漫画では、輪郭線だけで感情を伝え、断続的なコマの連なりで物語を描く。映画では2時間で一人の人生を語り、観る者に深い感情を呼び起こす。どちらも「輪郭の認知」による理解であり、人間が不要な情報を切り捨てる能力に支えられている。実用性を離れた抽出が、芸術の世界を形作る。

文章もまた、情報の抽出と再構成によって成立している。書き手は言いたいことの要点を抽出し、読み手はそこに自らの知識や経験を重ねて理解を深める。

ところが、インターネット上の情報は、あまりに断片的で、しばしば文脈を欠いている。いわば「トイレの落書き」のようなもので、書き手の情報は乏しく、読み手の想像力に大きく依存する。書き手の意図よりも、読み手の事情や感情が強く反映されやすい。この点で、長編小説とは対照的だ。長編小説には筆者の世界観が厳密に展開されており、読み手はその世界に自らを合わせてゆく。その過程で自分の思考や感性が変容し、成長を感じることもある。

しかし、断片的な情報を読むだけでは、そのような経験は生まれにくい。読む側の世界観がすでにできあがっており、そこに断片を無理やり当てはめて解釈してしまう。自らの世界観を訂正したり拡張したりすることは少ない。

このような「断片依存」の状態は、商品広告や政治宣伝にとって格好の土壌である。断片を繰り返し流すことで、何らかの「印象」だけを植えつける。発信者が伝えたいのは具体的な内容ではなく、「買え」「投票しろ」といった行動を引き出すことである。つまり、伝えられる言葉そのもの(メッセージ)よりも、「どう行動してほしいか」という背後の意図(メタメッセージ)が主役になっている。

「自分はこう思う、こう感じた」という表現と、「あなたにこうさせたい」という意図とは、本質的に異なる。現代の情報環境では、後者のメタメッセージが巧妙に織り込まれ、断片の繰り返しによって人々の行動に影響を与えている。

この時代において、本当に重要なのは、自分の中に体系を育てることではないだろうか。知識の「目次」を自らの内に持ち、そこに情報を位置づけて判断できる力を培うこと。それこそが、断片の時代において思考を保ち、扇動に抗うための最も確かな方法だと、私は思う。

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