文脈の消失と輪郭の記憶

文脈の消失と輪郭の記憶──ネット時代の思考と感情

いつからか、人の言葉や感情が、まるで乾いた枯葉のように軽くなってしまった。
誰もが似たような憂いを抱いているようだ。ネットの時代になり、人々は騙されやすく、煽られやすくなってしまったのではないか。そんな話題が、あちこちで囁かれている。
騙されやすく、煽られやすい人たちが、発信する手段を持っただけなのかもしれない。

かつて知識は、体系のなかでこそ意味をもった。
法律であれ、内科学であれ、哲学であれ、それらは一冊の教科書にまとめられた知の森のようなものであり、そこに枝葉のように新しい知見が差し込まれてゆく構造だった。知識の断片が出てきたとき、人は自分の内なる教科書の「目次」をめくり、そのどこに位置づけるかを考えていた。場合によっては、その目次が根本から書き換えられ、新たな書物になることすらあった。

ところが今、世界は断片にあふれている。
「熱が出たらこうしろ」「妄想が見えたらこうだ」といった一行知識が、浮遊する泡のようにネットの海に漂っている。それらは、体系のなかに組み込まれないまま、ただ単独で消費され、また忘れられてゆく。意味が文脈に結びつかないとき、人はもっとも騙されやすい。
商品も、政治的スローガンも、その隙をついてくる。

けれど、考えてみれば、脳そのものが、情報を単純化する装置であるとも言える。
網膜に入った光は、神経信号へと変換され、その段階ですでに圧倒的に単純化されている。その先、脳内で起こる処理は、さらに不要な情報を切り捨て、輪郭だけを残してゆく過程だ。

目に映るすべてのものをそのまま正確に記憶しようとすれば、人はただ疲弊するだけだろう。
赤ん坊にとって、目の前の人が母であるか否かがわかればよい。音がすれば、それが敵か味方かを判断すればよい。それで十分なのだ。人間の脳は、目的に応じた単純化の達人である。

その証拠に、われわれは漫画の数コマで物語を読み、数行の詩で涙を流す。
映画では、たった二時間の映像から、誰かの一生を感じ取ることもできる。それは、密度の高い現実の全容を再現することではなく、「輪郭」だけを巧みに描くことによって成り立っているのだ。人間の知覚は、本質的に抽出と再構成の芸術なのである。

文章もまた、情報の抽出である。
読者は、そこに自らの経験や知識を付け加え、意味を再構築する。だから、同じ一文でも、人によってまったく異なる読みが生まれる。それは豊かなことでもあるが、裏返せば、断片的な言葉だけが並ぶとき、読み手の「事情」がすべてを支配することにもなる。

ネット上の言葉が「トイレの落書き」に似ていると揶揄されるのは、そのような文脈の不在ゆえだ。
言葉が短すぎ、背景がなく、そして書き手の思考が伝わらない。残された読み手は、空白を埋めるために過剰な想像力を働かせねばならない。つまり、言葉の意味は、書いた者のものではなく、読む者の側に落ちてしまう。

長編小説や、分厚い教科書は違う。
そこには、書き手の世界観がしっかりと根を張っており、読者は自らの感受性をそれに寄せながら読み進める。そこには「学ぶ」という営みがある。読むことで、読者の内部にある世界観が、少しずつ揺さぶられ、形を変えてゆく。

だが、断片的な情報の摂取に慣れきった人間には、そのような変化は起こらない。
彼らは、自分の世界観を疑うことなく、届いた断片を「自分にとって都合の良いように」解釈し、取り込むだけである。

商品広告や政治宣伝は、まさにその構造を利用する。
繰り返し断片を流し続けることで、人々の内部に「気づかれない形で」印象を植え付ける。それらの断片は、言葉としての意味以上に、「買え」「投票しろ」というメタメッセージを送ってくる。

それは「私はこう感じた」という素朴な表明とは全く異質のものである。
意見のように見えて、実は誘導である。印象のようでいて、目的がある。つまり、それは感情を装った命令なのだ。

そして、われわれの側も、そうした命令に気づかぬまま、日々、断片を受け入れている。
なぜなら、もともとわれわれの知覚が、複雑なものから輪郭を引き出す習性を持っているからだ。
動画の情報量が増えても、通信速度が上がっても、結局、われわれの脳がそれを「粗雑に」処理するのなら、体験の本質はそれほど変わらないのかもしれない。

それでも希望があるとすれば、「文脈」の復活だろう。
背景に厚みのある情報、文脈に裏打ちされた言葉、コンテクストの復活。

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