輪郭の認識と、ネットの泡

従来は標準の教科書があり、あるいは、いくつかの知識の体系があり、それを学ぶことが基本だった。現在でも変わらない。

今のネット世界では、そういう感覚が希薄になってきた気がする。
「熱が出たときの対処法」や「統合失調症の妄想にどう対応するか」といった情報が、短い動画や箇条書きの投稿で次々と流れてくる。でもそれらは、どこかで浮遊しているだけで、どこにも根を張っていないように思える。情報が「知識」に変わるには、背景や文脈が必要なのに、それが抜け落ちている。

もちろん、ネットが悪いという話ではない。
むしろ、私たちの脳の側にも問題があるのかもしれない。思えば、私たちの知覚そのものが、もともと「粗雑さ」を受け入れる仕組みになっているのだ。視覚にしても聴覚にしても、入ってくる膨大な信号を、脳は勝手に「輪郭」だけにまとめあげてくれる。

たとえば、赤ん坊は、目の前の人間が「お母さんである」ことさえわかれば十分で、髪の毛の長さや鼻の形までは覚えようとしない。
漫画もそうだ。たった数コマで物語を理解し、笑ったり泣いたりできるのは、読者の側が「想像力」で空白を埋めているからだ。そう考えると、人間の知覚とは、常に「抽象化と再構成」の技術でもある。

けれど、そうした能力は時に裏目に出る。
断片的な情報があまりに多くなると、人は自分の中にある「既存の物語」にそれらを無理やり当てはめようとする。知らず知らずのうちに、自分の世界観に都合のよい情報だけを拾い集め、他のものはスルーしてしまう。

これは、商品広告や政治的な宣伝が最も巧みに利用している心理でもある。
繰り返される断片的なメッセージが、少しずつ、私たちの判断力ににじみ込んでくる。「私はただの一市民です」と語る誰かの言葉が、じつは組織的な誘導であったりする。「これは感想です」という体をとった命令──そういうものが、いともたやすく人の心に入り込んでしまう。

私自身も、ふとした瞬間に、自分が「輪郭だけで」世界を見ていることに気づいて、はっとすることがある。
それは、診察室で患者の話を聞いているときかもしれないし、あるいは街中で貼られたポスターの言葉に違和感を覚えたときかもしれない。言葉の奥にある「背景」に想像が及ばないとき、人は、もっとも単純で、もっとも扇動されやすい心の状態になる。

だから私は、教科書のような存在を、今あらためて大切に思う。
分厚い本のなかに流れる、著者の世界観や問いの射程。それらは、読む者の感受性を揺さぶり、少しずつ視野を広げてくれる。読むことは、受け入れることではなく、自分のなかに異物を持ち込むことだ。

文脈のある言葉だけが、人の考えをゆっくりと変えてゆく。
それは、時間のかかる営みだ。でも、泡のように浮かんでは消える断片に囲まれている今だからこそ、あえて時間をかけること、根気よく意味をたぐることの価値があるように思う。

輪郭だけの世界では、人は迷子になる。
たとえ道が見えていても、その道がどこへつながっているのかがわからないからだ。私たちがほんとうに必要としているのは、言葉の「鋭さ」ではなく、物語の「つながり」ではないだろうか。

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