H.M.の症例 症例Clive Wearing


🧠 H.M.とは誰か?

  • 本名:Henry Molaison(ヘンリー・モレーソン)
  • 生年:1926年、没年:2008年
  • 重度のてんかんを患っていた。
  • 1953年(当時27歳)、海馬(hippocampus)を両側とも切除する手術を受ける(てんかんの外科的治療)。

💥 手術の結果:何が起きたのか?

得られた効果:

  • てんかんの発作は大幅に軽減。

副作用としての大問題:

  • 重度の前向性健忘(anterograde amnesia)
    • 手術後、新しい記憶を一切形成できなくなった
    • 例えば、毎日同じ医師に会っても「初めて会う」と言い続ける。
  • 一部の逆行性健忘(retrograde amnesia)
    • 手術以前の記憶も部分的に失われていた。

ただし:

  • 知能(IQ)や言語能力、注意力などは維持された
  • 手続き記憶(スキル学習、例:鏡文字を書く)は保たれていた

🧩 何がわかったのか?──「記憶」と「自己」の科学的意義

H.M.の症例は、記憶と「自己」の理解に革命をもたらしました。

1. 海馬の役割が明確に

  • 海馬は新しい記憶の固定(エンコーディング)に不可欠
  • ただし「昔の記憶」は海馬がなくてもある程度は保持される → 長期記憶は脳内の他の部位(大脳皮質など)に再配置されると推定。

2. 記憶には種類がある

記憶の種類H.M.での影響
陳述記憶(事実・出来事)新規形成 × /昔の一部失う
手続き記憶(技能など)新規形成 ○(例:習慣は形成できた)

3. 「自己」の時間的連続性に記憶が関与

  • H.M.は新しい記憶を作れないため、「自分は時間の中に連続して存在している」という一貫した自己像を持てない
  • 一人称の「私」はあるが、「昨日の私」「明日の私」がつながらない。
  • これは哲学的にも非常に重要で、「記憶とは何か」「自己とは何か」に直結する。

🔍 関連する理論家のコメント

  • エンデル・タルヴィング(Endel Tulving)
    • 記憶には「自伝的意識(autonoetic consciousness)」があると提唱。
    • H.M.にはこれが欠如しており、自分の人生を「物語として再生」できない
  • トマス・メッツィンガー
    • 自己とは脳が生成する「仮想モデル」であると主張。
    • H.M.のような症例は、自己が「記憶によって支えられている仮構である」ことを裏付ける。

🧩 なぜ重要なのか?(現代への応用)

  • アルツハイマー病や認知症の理解・ケアにも貢献。
  • PTSDや解離性障害(記憶が断絶される)にも応用可能。
  • 臨床心理学や精神療法において、「記憶」と「自己感覚」の関係を治療の鍵として見る視点を与えてくれる。

✨ まとめ:H.M.が私たちに教えてくれたこと

自己とは、「私の記憶」によって支えられた、時間的に連続した存在である。

H.M.のように記憶が失われると、「今ここ」の自己は保てても、過去から未来へと続く「私の物語」が断絶されてしまうのです。


H.M.の症例は記憶研究の金字塔ですが、彼と同じく記憶障害を通じて「自己の本質」に迫る重要なケースがあります。その代表が **Clive Wearing(クライブ・ウェアリング)**です。そして、これらの症例が神経科学にもたらした理論的インパクトは計り知れません。


🔹 Clive Wearing:生きながら「現在」だけに生きる男

✅ 背景

  • 英国の著名な音楽学者・指揮者。
  • 1985年、ヘルペス脳炎により脳の海馬と側頭葉の一部が破壊。
  • 結果として、重度の前向性健忘と逆行性健忘を発症。

✅ 特徴的な症状

  • 記憶保持は7〜30秒ほど。
  • 毎回「いま目覚めた」「今はっきりした」と言い続ける。
  • 自分が何歳か、今が何年か、妻がいつ来たかを記憶できない。
  • しかし、ピアノ演奏の能力は保持されている(手続き記憶の保存)。

✅ その意味

  • 「時間的連続性の崩壊」が極限的に表れた例。
  • 自分の人生が「存在しない」ような状態にありながらも、愛する人への情動(妻への愛情)は持続。
  • これは、「情動の記憶」と「陳述的記憶」が異なるシステムで動いていることを示唆。

🧠 H.M. や Clive Wearing から派生した 最新の脳科学的理論


① 自伝的記憶と自己意識の関係性(Endel Tulving)

  • 自伝的記憶には「autonoetic consciousness(自伝的自己意識)」が必要。
  • H.M.やCliveはこの機能を失っており、過去を自分のものとして再体験することができない
  • これは「未来を想像する能力(prospective memory)」にも影響。

② プロト自己 → 中核自己 → 自伝的自己(Antonio Damasio)

  • 自己は階層的である:
    • プロト自己:生理的状態を維持する最も基本的な自己感。
    • 中核自己:今ここでの経験を主観として感じる意識。
    • 自伝的自己:記憶と未来の想像から構成される時間的連続性をもつ自己。

→ CliveやH.M.はプロト自己と中核自己は保たれているが、自伝的自己が崩壊していると解釈できる。


③ 自由エネルギー原理(Karl Friston)

  • 脳は「予測する機械」であり、世界や自己に関するモデルを作って、誤差を最小化している。
  • 記憶がないということは、自己モデルを時間軸上で更新できないということ。
  • 自己とは、時間を通じた自己モデルの更新プロセスの連続であるという見方が可能。

④ 現象学的自己モデル(Thomas Metzinger)

  • 脳は「自己モデル(phenomenal self-model)」を生成している。
  • このモデルは錯覚だが必要なもの:つまり「自己」は幻想だが、その幻想がないと行動できない。
  • CliveやH.M.の症例は、そのモデルの一部が欠落しても行動が可能だが、アイデンティティは維持できないことを示す。

📌 臨床的・哲学的な含意

問題Clive/H.M.が示すこと
「自己とは何か?」記憶のないところに「物語としての自己」は存在できない
「感情は記憶に依存するか?」手続き記憶や情動は保持されることがある(→ 記憶には複数の回路がある)
「私たちはどこにいるか?」「今ここ」の経験だけでは、「人生」を感じることはできない

✨ まとめ:H.M.とClive Wearingが示す“人間の本質”

自己とは、脳が作り出す記憶と予測の連続によって、 「時間を旅する主観」 として成立している。
記憶を失うことは、人生という物語の「語り手」を失うことでもある。


タイトルとURLをコピーしました