「好き」だけでは頑張り切れない食の世界で、彼女が見つけたもの

 小学校のころは『大草原の小さな家』の本に出てくるビスケットや、塩漬け豚のソテーのような料理に憧れ、中学ではドラマ『ツイン・ピークス』のアメリカンチェリーパイに。このとき、初めてパイ生地に挑戦し、アメリカンチェリーの缶詰を使って再現した。
 映画と音楽番組と『きょうの料理』(NHK)を録画する中学生だった。
 「中2のとき2週間だけアメリカに交換留学したら、ホームステイ先のお母さんがイタリア系の料理好きのマダムで。ビスコッティ、トライフル、ラザニア。たくさん教わりました。キッチンエイドを見たのも初めてで、お菓子作りにますます興味を持ちました」

 お菓子を作る仕事をしたいと、うっすら思い始めたのは高校生のころだ。しかし、親の希望もあり、大学は国際学科へ。
 茨城から上京した彼女は、市立図書館にあふれる料理本、お菓子本の豊富さに驚き、それらを見ては台所で再現する日々を送る。

 いざ就活の時期が始まると、想像以上の厳しさに落ち込んだ。
 「1999年の就職氷河期の底。三流私文では、まともに就職できる人はほんのひと握りで、優秀な友達でさえ受けても受けても、受からない。とても私では無理だと戦線離脱しました」
 そのうえ、学んだ分野とは異なる食品業界を目指している。
 カフェでバイトをしながら、製菓学校の夜学に通おうとしていたころ、親戚の遠いツテで、一流ホテルのペストリー部門でのアルバイトが決まる。

 「本格的なフランス菓子やドイツ・ウィーン菓子を作るホテルでした。カフェでのバイトならいつでもできるけれど、一流ホテルはこのタイミングでないと難しいと思い、恐る恐る飛び込んだのです」

 働き方改革という言葉もない26年前の調理現場は、「衝撃的なくらい男性優位の世界でした」と振り返る。
 「当時のパティシエは大卒が少なかったので、中には、“大学まで出てそれか”と言う方もいました。私は調理学校も出ていない半人前なので、スタートラインにも立てないんだなあと……。30人中女性は4人。ホテルの製菓は力仕事も多いのですが、“できないなら、女は要らない”と言われるのが嫌で、がむしゃらに働きましたね」

 粉25キロ、砂糖30キロ、生クリーム16リットル、ケーキ100個。重くて持てなかったら「使えない」と思われるので、毎日必死で運んだ。とくに腕力を要したのが飴細工だ。
 「当時はホテルのパティシエはみな、コンクールを目指して飴(あめ)細工をやっていたんですね。これが熱くて、つやを出すために引っ張るのでじつは力がいる。それと、アメリカのざっくりした焼き菓子が好きな私には、楽しいと思えなかったのも辛かったです」

 周囲の目が少しずつ変わってきたのは、5年目にコンクールのシュガークラフト部門で金賞をとってからだ。
 シュガークラフトの技術は、ウェディングで需要がある。
 「ホテルで学んだこともたくさんあります。フェアで来日した世界の一流シェフの技術や、大きな宴会やディナーショー、有名人の婚礼では600人に一斉にデザートを出したり、政府要人のデザートを考えたり。イベントの裏方としての段取りや、食材発注の計算も身につきました。そう、終業後、朝までひとり調理場でシュガークラフトの練習をさせてもらえたのも、ありがたかったです」

 職場に、やっと居場所ができ始めた。とりわけ彼女を信頼してくれたのは、宴会や婚礼の営業担当の社員だ。
 「学生時代、国際学部で勉強していたので、当時の日本ではまだそれほど一般的ではなかったイスラムのハラル料理のオーダーが来ても相談に乗れた。調理場スタッフでパソコンが使えたのも重宝がられました」

 アルバイトから、契約社員を経て、25歳で正社員に。
 しかし、30歳で退職を余儀なくされる。運搬作業の無理によって発症していたヘルニアが、重症化したのである。
 もう食の仕事は辞めよう。
 大好きな製菓の世界に区切りをつけ、職業訓練校で事務職の訓練を受ける。

 半年間学んで気づいたのは、「やっぱり菓子を作る仕事が好きだ」というただ一点の真実だ。
 そして、人気の製菓材料の会社に転職を果たす。
 所属は念願の商品開発部。
 ところが待っていたのは、残業代なし、毎日23時29分の終電で帰る生活だった。

過労で倒れて気づく、第二の人生の限界
 「当時は東京の東のはずれに住んでいて、23時29分が最終電車だったのです。8時に家を出て、3食会社で食べます。もちろん残業食代の支給もない。やりがいと引き換えに、体力は限界まで疲弊していきました」
 自宅の冷蔵庫はビールだけになった。

 睡眠時間を確保し、終電を逃しても徒歩で帰宅できる場所を探し、現在の学芸大学の賃貸マンションに越した。
 30㎡の部屋にしては台所が広い。
 けれども寝に帰るだけで、台所は荒(すさ)む一方だ。実家から届いた野菜がダメになっていくのを見て、涙が止まらなくなったことも。
 「今考えたらひどいんですが、そのときは自分の労働環境について考える気力もなく、ひたすら目の前の仕事をこなすしかなかったんですよね」

 6年目のある朝、出勤前の洗面所で倒れた。
 過労によるめまいだったが、頭の打ちどころが悪く、外傷性のくも膜下出血に。
 入院を経て復帰後1年半頑張るも、労働環境は変わらず、「このままでは死んでしまう」と思い、退職した。

 実家に一時帰り、熟考した。
 「社員時代は、お菓子を教える仕事もしていて、みなに喜ばれることが自分の喜びになっていた。組織の一員になるのはやめて、自分でお菓子教室をやろうと考えました」

 心配する両親を置いて、住みなれた東京の部屋に戻る。
 教室に使うために探していたキッチンスタジオのウェブサイトで、アルバイト募集の広告が、目にとまった。前職の会社が運営するキッチンスタジオの時給の約2倍だった。
 母体は食専門のPR会社のようだ。生活費のためもあるが、スタジオの管理という同じ業務で、なぜそのような待遇が可能なのか、運営のあり方に興味を持ち、面接に応募した。

 無事採用され、働き出すと驚きの連続だった。
 よほどのことがないかぎり、基本的に18時の定時に帰ることができる。休日に出勤すれば必ず代休をとれる。そして広告の世界は、仕事で動く額も桁違いに大きい。
 「イベント、雑誌撮影試食会、料理教室、料理家のアシスタント。スタジオ運営の合間に、次々仕事を頼まれ。私は料理と、営業事務の両方ができたので、任せられる領域が広がっていきました。やっていることは今までと同じなのに、こんなに感謝され大事にしてもらえるのかと、本当に嬉(うれ)しかったですね」

 ホテルの厨房(ちゅうぼう)で働いていたので、撮影用の料理を手伝える。職業訓練校で覚えた事務を活かしてマネジメント業務を、前職の商品開発や教える仕事からは企画立案のサポートを。
 PRの世界では、厨房での調理経験を持つ人は稀(まれ)だ。
 今までしてきたすべてのスキルが仕事にいかせ、苦しかった日々に無駄がなかったと知る。

 翌年、40歳で初めて、残業代が出る企業の正社員になった。

新天地へ
 味噌(みそ)を作るようになった。梅干し、梅ジュース、甘酒、塩麹(こうじ)、玉ねぎ麹、柚子胡椒(ゆずこしょう)。やりたかった手仕事の成果が、台所に増えていく。
 季節の果物は安くなったらジャムやマーマレードにし、友達に分ける。実家から届く父の手作りの蒟蒻(こんにゃく)や料理のお裾分けは、マンションの隣人の老婦人や管理人にも。
 実家から白菜ふた玉が届いたとき、鍋やキムチにして全部食べ切った。
 「使い切れた喜びが半端なかったです」

 アシスタントもマネジメントもできる彼女を指名する料理家が増えたなかに、葉山に住む女性がいた。撮影の手伝いに通うと、家庭菜園で採れた野菜をご近所同士でお裾分けしあい、家にはたくさんの人が出入りし、いつもわいわい楽しそうに食卓を囲んでいる。
 それは、実家の祖母や両親がしていたことと同じだった。

 メディアでも引っ張りだこのその料理家は、どんなに体に良いものでも、「おいしくないと続かない」が持論だ。
 おいしければ笑顔になる。なにを使うか以上に、みなで笑いながら食卓を囲む喜びを尊び、それこそが心の栄養、支えになると、一貫して伝えた。
 「葉山に引っ越しておいでよ」と、よく言われた。仕事を通り越して「家族のような人だった」と彼女は述懐する。
 過去形なのは、3年前に料理家は逝去したからである。

 本稿の取材の翌日、逗子葉山に転居するとのことで、住まいは段ボール箱に囲まれていた。
 それでも台所には、確かな生活の痕跡があり、冷蔵庫にジャムやマーマレードの瓶が六つも七つもあった。
 気に入っていた学芸大の街と台所からの卒業を、彼女らしい肯定のしかたでこう語る。
 「行きつけのスーパーがリニューアルオープンしたら、若者やインバウンド旅行者、おそらくお料理をもうしないであろう人向けのお総菜や、すぐ食べられる食材コーナーが以前の3倍くらいに増えていました。今まで買えたちょっといい調味料やお魚売り場はすごく小さくなって。あぁ、ここのターゲットから私は外れたんだなって強く感じました」
 葉山には、亡き料理家を通じてできた、たくさんの友達がいる。料理や菓子と人との交流を軸にした、次の道も模索し始めている。

 今でも、台所で鶏の味噌焼きや甘酒入りハンバーグを作ると、その料理家を思い出す。
 「料理って不思議ですね。食べたらなくなるけど、見えない何かが残る。そこにいないのに、一緒に食べている気がします」

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