これ、また僕が洗うのかな。
水につけたままの汚れた皿を見て思った。 2歳上の恋人が洗い物や掃除が苦手なのは、同棲(どうせい)してすぐ気づいた。
学生時代からそのまま就職した北海道での、初めてのふたり暮らし。胸躍る思いで始まった日々は、しらずしらずのうちに、雪のように小さな不満が積もっていた。
「料理は好きなので、6:4で僕のほうが多くても気にならなかったんです。ただ、作ってもらったほうが片付ける感じになっていたのが、彼女は食器を水につけたまま“明日でもいい?”と。だったら僕が洗うよ、というのが習慣になってしまい、もやもやがたまっていきました」
転職した彼女は疲労がたまっているようで、土日は寝ていることが多い。気づくと、家の掃除も彼がひとりでこなしていた。 とはいえ、とくに家事分担を決めているわけではない。
「休日はふたりで早く家事を済ませて、一緒に楽しみたいけれど、体がしんどい人をむりやり起こすのも気が引けますし……。家事も、イーブンが嬉(うれ)しいけど、あれやってこれやってと揉(も)めるより、自分が先にやってしまうタイプなので」
気にしだすと、どんどん家が快適な場でなくなってゆく。 2LDKの北海道のマンションは広く、掃除も時間がかかる。 「ひとりのときより家事に時間を取られ、ふたり暮らしなのに大変なのはおかしいなあって」
同棲から7カ月。彼は、東京への転職を決意する。
「札幌でも探していましたが、求人が少なかったので」
彼女は札幌で、前述のように転職して間もない。 ある日の夕食後、キャリアを高めるための新しい挑戦をしたいと、彼は切り出した。それは同棲解消を意味し、今後の付き合いに関して未来の見えない選択になる。
「行かないでほしい」 泣いて止められた。 「20代のうちに新しいことをやりたい。今の知識は、今の会社にしか通用しない。もっと自分の裾野を広げたいんだ」 ひと月、話し合いを重ねた。
彼は、述懐する。 「キャリアアップしたいのは事実ですが、暮らしが快適だったら、思いとどまっていたかもしれません……」
最終的に彼女が折れ、背中を押した。 「君が決めたことだし、頑張るしかないんじゃない?」
膨らむ後悔 今年2月。 初めての東京生活に戸惑っていた彼に、転職エージェントで担当になった40代の女性が、住まい探しも手伝い、なにかと親身になってくれた。
「東京のお母さんだと思って、困ったことがあったら何でも言ってね」
満員電車には乗りたくない、という理由から勤務地に近い茅場町に物件を決めた。 ところが、ひとりになったとたん思い出されるのは彼女のことばかり。後悔が次々押し寄せてきた。
「コロナ禍にくわえ、プロジェクト配属が決まるまで孤独だったというのもありますが、僕はなぜ家事が面倒という負の部分ばかりみていたんだろう。一緒にごはんを食べるとか、笑い合うとか、生活の楽しいことがたくさんあったのに、と後悔に襲われました。細かいことばかりに焦点が合って、彼女からもらっていた大きな喜びを見落としていたんですね」
家事シェアのやり方も、もっと工夫すべきだった。料理・片付けと細かく分けるのではなく、「じゃあ洗濯だけは全部よろしく」という大きな任せ方もあったはずだと悔いた。
「習慣や価値観が違う大人同士が一緒に暮らすのだから、細かい違いに目を向けたらきりがない。もっとおおざっぱな視点でよかった。部屋でひとり、料理をすればするほど、彼女はちゃんと食べているかな、これを食べさせてあげたいなと思うし、洗い物なんてやれる人がやればよかったと後から気づくのです」
ふたりでいたときによく食べていた、ポトフを作った。 ひとりではなかなか減らない。彼女は線が細いわりに、よく食べる人だったと思い出した。 「大切な人のために料理をすることで得られる喜びは、なによりも大きかったんですよね」
後悔や自己否定、孤独にがんじがらめになって自分を見失いかけた頃、苦し紛れに前述の転職エージェントの女性に電話をかけた。 「彼女を置いてまで東京に来たけれど、プロジェクト配属先もまだ確定せず、仕事もプライベートも、全然うまくいく自信がありません」
彼女はすぐ提案した。 「ランチに行きましょう!」 彼の昼休憩に合わせて予約してくれた虎ノ門のメキシカンレストランで、タコスを食べた。 東京に来てからの孤独感や不安。胸にしまっていた言葉が、とめどなくあふれだす。 ──この転職は間違いだったのでしょうか。
「大丈夫。一緒に正解にしていきましょう」
その後、配属も決まり、同僚の友が増え、休日は学生時代の友と会うなど、徐々に気持ちが立て直っていった。 上京4カ月目の今、彼は言う。 「東京の人が冷たいって、まだ僕は一度も思ったことがないです」
じつは2月の終わりに、恋人が遊びに来た。近所の日本橋や人形町をぶらぶら歩いているとき、彼女がつぶやいた。 「東京って、もっとごみごみしてるかと思ったけど、こういう感じ、ありかもー」 その瞬間、心のなかに希望が生まれた。──また、一緒に住んでくれるかな。
マンションのある茅場町はオフィス街のイメージが強いが、すぐ裏に川や橋がある。一本入ると古い路地も残っている。 「意外と、昔の江戸の感じが残っているんですよね。そこをいいと思ってくれたのかも」
現在は「東京で住むならどこがいいか」という会話を、ラインと電話でなんとなく交わしているという。
「作りおきは苦手で、スーパーで買い物をしながら献立を考えるのが好きです。札幌より東京の野菜のほうが安くて驚きました。北海道は輸送費がかかるからでしょうね。彼女は仕事が忙しくて、お弁当や外食が多いらしい。 忙しくても簡単に作れるレシピを、教えてあげようと思います」
まだ確たる約束まではできないふたり。互いの毎日に精いっぱいで、やりたいこともそれぞれにあるからこそだろう。暮らしてみたらちょっと違った、そこから学んで、次こそはという恋愛経験は、誰にもある。
自分を責める彼の話を聞きながら、私は別の感慨を抱いていた。 連載10年。一緒に暮らして、家事が僕ばかり、休日も彼女は疲れていて寝てばかりと悩む男性に初めて会った。その逆は、大昔からある。
取材後、夫が何もやってくれないと嘆く女友達を励ますように、思わず私は声をかけた。「誰だって、同棲が最初からうまくいくことなんてないですよ。大丈夫。いくらでもやり直せます」
ちょっと元気になりました、と後からメールが来た。