理想通りにいかない現実。台所に慰められた日々

こういう記事はあまり刺激的ではないので継続して紙面に掲載されるものではないだろうけれども、こういうのが人生の一面だと思った。この連載はそれぞれ違うけれども何か似ていて面白い。

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 〈私は共働きの家庭に育ち、家に帰ったらお母さんがいることにとても憧れていたので、そうなりたいと思っていましたが、旦那の仕事が軌道に乗らず理想通りにはいきませんでした。
 次の家が見つかり、引っ越しをしたら旦那と今後について話をしようかと思っています。
 両親にも話せない辛(つら)い状況を、なんとか生きてきた自分を、台所は知ってくれている、人でいったら親友な存在です。
 食の思い出が出てこなくてすみません〉

 行間から、なんともいえない諦観(ていかん)がにじむ。同時に、長くもがいた時期を経て、もう何かを心に決めているかのような、わずかに清々(すがすが)しいものを感じた。

 ところが、本連載は応募者に対して毎月2名しか取材できないため、取材依頼までにタイムラグが生じる。彼女の台所を訪ねたのは五カ月後で、その間に、離婚をしていた。
 元夫はまだ同居していて、近々互いにこの家を離れる。親権は彼女が持ち、子どもたちとの次の家も、もう決めたという。

 築60年の長屋形式のその家は、一階が玄関のみで、細い階段を上ると、広々とした台所と居室が目に飛び込む。
 時々雨漏りするという台所には天窓がついていて、古いながらも明るく開放感がある。

 6歳、10歳、12歳なので、階下の住人に迷惑をかけないよう、床一面に防音シートを敷いている。
 アルマイトのやかん、祖母の家から持ってきたという古いラジオ、鍋帽子(保温カバー)、居間の椅子の背もたれにかかった子ども用の半纏(はんてん)。どれも最近ほとんど見かけなくなったものなので、印象深く思った。

洗脳のように……
 「実家は代々小売業を営んでいて、母がとても忙しかったのです。家業をしながら、家事と育児もワンオペで。私は、家に帰ったらお母さんがおやつを作って待っていてくれる家庭に憧れ、子どもが生まれたら専業主婦になりたいと願っていました」

 20代は恵比寿ガーデンプレイスでバリバリと会社員として働いたが、そのかたわら、和裁を習ったり、羽仁もと子が設立した「全国友の会」に入って学んだりした。友の会とは、家事や家計、子どもの教育、健康など、主として家庭生活の充実向上を目指して会員同士で学び合う組織である。電気を使わず余熱で保温調理する鍋帽子などの生活道具も、この組織から生まれた。

 しかし、仕事との両立が難しくなり、2年でやむなく退会する。
 「家計簿をつけたり、献立のことを学んだり。専業主婦の方々が多く、生活に対してじっくり考えられるのは羨(うらや)ましいなあと思いました。でもあまりにも自分の生活には、そんな余裕がなくて……」

 28歳で結婚。ペット可と駐車場付きに惹(ひ)かれ、現在の家に入居した。当時は犬を飼っていた。
 「それだけでなく、台所の茶色のタイルやレトロな雰囲気も、とても気に入っていました」
 だが、ここから人生のプランがほんの少しずつずれてゆく。
 夫が結婚と同時に、起業したのだ。
 「うまくいくまででいいから手伝って」と言われた。
 軌道に乗ったら専業主婦になるつもりが、何年経っても利益は出ず、自分の報酬はない。それどころか、3年が過ぎたころ、事務所の家賃と光熱費、取引先から届いた経費の請求書を回され、援助を求められた。彼女自身は、もともと物欲があまりなく「お金のかかる趣味もなかった」。学生時代からバイトをすると貯金し、祖母が彼女のために遺(のこ)してくれた蓄えも少々あったのを当てにされたのだ。

 「うまくいくからという彼の言葉を信じていたんですね。今思うと根拠もなくて、洗脳のようだけど、当時は疑うこともしなかった」

 35歳で出産以降、3人の育児と家事も重なる。
 「ワンオペの逆で、元夫は育児をすごくやりたがりました。本来、それ自体はいいことにちがいありませんが、毎月会社に資金援助をさせられているもやもや感、産後実母が手伝いに来てくれているなか、仕事にいかず、ずっと家にいて、オムツ替えやミルクを全部ひとりでやろうとする。実母とギクシャクする間を取り持つストレス。“育児をやる時間があるならその分稼いできてほしい!”と、口にこそ出しませんでしたが、つい思ってしまう自分がいました」

ラジオと猛勉強
 仕事と家庭の切り盛りに息をつくまもない日々ではあるが、台所に立つと、不思議と気持ちが鎮まった。
 「ラジオを聴きながら料理に集中できるのがいいんですよね。料理ができあがるとスッキリしますし」

 周波数を合わせるのが面倒なので、もっぱらNHKを聴いている。18時に仕事から帰宅すると、まずラジオの電源を入れる。それが「さあ調理を始めるぞ」という自分のスイッチだ。19時に食べ始め、片付けが終わるまでつけっぱなしにしている。
 「子育てが始まってから、ほとんどテレビを見てないです。じっと座っている時間がないので。ラジオでしか世間のニュースを知らないんですけど、スマホもあるしわりに不自由はないです」

 市販の合わせ調味料や、即席でできるものはあまり使わない。「友の会」のとき学んだ料理本で、市販のものを使わなくてもおいしくできると知ったこと。長年の経験で、レシピ投稿サイトからも、おいしくできるコツを取り入れられるとわかったことが大きい。

 夫の事業のことを考えると悩みは尽きない。いつかよくなるから、儲(もう)けが出るからという言葉にのせられ、「まるでオレオレ詐欺のように」自分のお金がなくなってゆく。
 台所に立つときだけ、それを忘れることができた。

 3人目の妊娠中、この生活は経済的にいつか破綻(はたん)すると、ハローワークに通いだした。
 しかし、一次は通っても二次で「すみません。お子さんの年齢教えて下さい」と聞かれ、必ず落とされた。
 「保育園児がふたりいて、さらに現在妊娠中。そんな女性はなかなか雇用されません。いつ子どもの熱などで休まれるか、わからないからです」

 自分を雇ってくれる企業はない。
 そう悟った日から、猛然と保育士資格の勉強を始めた。ハローワークで、保育士の求人はつねにあった。急な休みなど、子育てにも理解がある園が多いようだ。
 手に職をつけるしかないと強く思った。

 昼は夫の会社の仕事をこなし、夜、子どもを寝かしつけてからテキストを開く。1年後、無事合格し、会社の仕事は徐々に減らしてフェイドアウトした。

 今も続ける保育園の仕事は、肉体的に大変な部分もあるが、毎日楽しくてしかたがないと顔がほころぶ。
 「小さい子はストレートで、無垢(むく)で、楽しいときは心の底から楽しそうだし、嫌なときは泣いて、自由で、かわいい。私は自分の子育てをしていた頃、忙しくて十分にしてあげられなかった後悔があります。その分を、保育園の子どもたちにおもいっきりやってあげられる。それが嬉(うれ)しいです」

「人生、詰んだ」
 3年前、初めて夫に渡した金を計算した。8桁を超えていた。亡き祖母から譲り受けたものも消えた。
 「あまりの数字に驚愕(きょうがく)しました。それまで怖くて数えてなかったのです。もう人生終わりだと真っ暗になった。家族にも誰にも、言えなかった。なんでもっと早く言わなかったのとか、そんなに出すなんて馬鹿じゃないのと言われるのが嫌だったので」

 精神的に不安定になり、たったひとり中学時代からの親友に電話をかけた。
 「私、人生詰んだわ」
 それから夫を信じていたこと、彼に渡した総額。洗いざらい打ち明けた。
 黙って聴いていた親友が、まっさきにこう言った。
 「何言ってんの! 私たち、まだまだこれからだよ! 子育て落ち着いたら、温泉行こうって言ったじゃん」

 5日後、親友は夫婦でかけつけ、離婚届の証人として署名をした。証人は2名必要だったからだ。
 さらに、両親には黙って離婚しようと思っていると言うと、「自分の娘が何も相談せずに離婚していたら悲しい。伝えたほうがいいと思う」と一心に説かれた。実際そうすると、両親は責めるどころか親身になって寄り添ってくれた。今となっては本当にありがたい助言だったと振り返る。

 物件探しやひとり親の様々な手続き、引っ越しの荷物整理など、親友に陰日向(ひなた)になり支えてもらいながら、今年2月、離婚が成立。
 現在は夫と、子どもの迎えなど助け合いながら、立ち退きまで最後の共同生活をしている。

 次の家は日当たり良好で夜景も見えるらしい。
 離婚という決断を経て彼女は、自身の変化をこう実感している。
 「これまでできないと思い込んでいたいろんなことを、今ならできそうな気がしています」

 とはいえ、ときに不安になったり、まあ大丈夫とポジティブに言い聞かせたり、やじろべえのように気持ちが揺れ動く日もある。
 「でも帰宅して、台所でエプロンをするとホッとする。不思議と落ち着く。台所に慰められてる感じがするんですよね」
 新婚の夢を語る日々も、後悔や不安や怒りで泣きぬれた日々も、全部見てきた20年来のもうひとりの“親友”に別れを告げる日が近づいている──。

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