「実権をふるいたいのなら、なぜ天皇のままでいないのか?」と思われますが、実は天皇を退位して「上皇」になった方が、より自由に、より強く実権を掌握できるという政治的・制度的な利点がいくつもあったのです。
- ◆ なぜ天皇を退いて上皇になるのか?
- ◆ 天皇のままでいるより「上皇」の方が有利な理由
- ◆ 院政を象徴する人物:白河上皇の例
- ◆ まとめ:なぜ上皇になった方がよいのか?
- ◆ 1.後白河の基本情報と院政開始までの経緯
- ◆ 2.後白河院政の3つの時期に分けた流れと特色
- ◆ 3.後白河院政の特徴と影響
- ◆ 4.後白河法皇の評価:操り人形か、したたかな政治家か?
- ◆ 結論:後白河院政とは何か?
- ◆ 1.後鳥羽院とは誰か?
- ◆ 2.後鳥羽院政の背景:天皇親政への執念
- ◆ 3.院政の展開:政治・文化・宗教の多方面戦略
- ◆ 4.クライマックス:承久の乱(1221年)
- ◆ 5.後鳥羽院政の歴史的意義
- ◆ 6.後鳥羽院という人物の特異性
- ◆ 結論:後鳥羽院政とは何だったのか?
- ◆ 概要:西面の武士とは何か?
- ◆ 背景:なぜ西面の武士を設けたのか?
- ◆ 組織構造と性格
- ◆ 西面の武士の代表的人物
- ◆ 歴史的意義
- ◆ 西面の武士の終焉
- ◆ 結語:西面の武士とは何だったか?
- ◆ 一般会計と特別会計の違い(前提)
- ◆ 特別会計が「おいしい」と言われる理由
- ◆ 特別会計の数と実態(2020年代)
- ◆ 結論:なぜ「おいしい」のか?
◆ なぜ天皇を退いて上皇になるのか?
▶ 表面的には「譲位」=孫や子への位の譲渡
しかし実質的には、
- 「自分の血統からの幼い天皇」を即位させて傀儡とし
- 自分は「上皇」として院政(いんせい)を行い、背後から政権を動かす
という「支配スタイルの転換」でした。
この体制は、**11世紀後半〜13世紀の院政期(白河上皇〜後鳥羽上皇など)**に特に顕著です。
◆ 天皇のままでいるより「上皇」の方が有利な理由
① 天皇は儀式・慣習に縛られる存在だった
- 天皇は神事・公事の象徴的存在であり、「祈りの王」「見せる王」であって、
- 行動の自由がなく、政治的実務に深入りしにくい立場になっていました。
👉 上皇になることで、こうした儀礼的制約から解放され、
👉 より柔軟に実務的な政治(人事・軍事・経済)に専念できたのです。
② 上皇は「院庁」(いんのちょう)という独自の政府機関を持てた
- 上皇は「院庁」という政務機構を通じて、天皇を飛び越えて直接命令(院宣・院庁下文)を出すことが可能でした。
- これは言わば「別ルートの政府」を持つようなもので、朝廷の公式機構とは並列・競合する形です。
👉 上皇が天皇よりも強い実権を持つことも珍しくありませんでした。
③ 上皇は荘園を直接支配して「院領」として収入を得た
- 上皇は自らの院領荘園を全国に持ち、その収益は莫大でした。
- それは天皇の「国家財政」に比べて、より自由に使える私的な資金源となりました。
👉 天皇のままでは国家の財政に縛られるが、
👉 上皇であれば、荘園を独占的に所有・管理して、経済的独立性を確保できました。
④ 幼い天皇を擁立することで、政敵(他氏族や他皇族)を排除できた
- 自分の子や孫を即位させることで、他の血統や藤原氏などの外戚を遠ざけ、
- 「院政」を通じて実権を自分とその近親で独占できました。
👉 政略の一環としても、上皇という立場は非常に有利だったのです。
◆ 院政を象徴する人物:白河上皇の例
白河上皇(1053–1129)は、最初に本格的な院政を行った人物で、
「院(上皇)の御時、鳥羽院の御時、崇徳院の御時、皆、この白河院の御心に任せられけり」
(※『大鏡』より)
と記されるほど、3代の天皇にわたって実権をふるいました。
また、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、そして白河院の御心」は「思い通りにならぬもの」とされるほど、彼の政治的権勢は強大でした。
◆ まとめ:なぜ上皇になった方がよいのか?
観点 | 上皇になるメリット |
---|---|
政治的自由 | 儀礼から解放され、院庁を通じて直接政治を行える |
経済的基盤 | 院領荘園から莫大な収入を得られる(国家財政に頼らない) |
血統の支配 | 幼い天皇を擁立し、他氏族・外戚を排除できる |
行政構造 | 天皇の朝廷とは別に、上皇の院庁で命令を発出できる |
長期支配 | 退位後も死ぬまで政権に関与できる(場合によっては数十年) |
後白河上皇(1127–1192)は、日本の歴史における院政期最大のキーパーソンの一人です。彼の治世(1155年即位)から退位(1158年)後の長期にわたる**院政(約30年以上)**は、平清盛の台頭、源平合戦、そして鎌倉幕府の成立に至る激動の時代と重なります。
以下に、後白河院政の特徴・流れ・影響を詳述します。
◆ 1.後白河の基本情報と院政開始までの経緯
- 名 前: 後白河天皇(ごしらかわてんのう)
- 生没年: 1127年 – 1192年(享年66)
- 即 位: 1155年(在位3年)
- 退 位: 1158年 → 以後「上皇」「法皇」として実権を握る
- 院政期間: 約30年間(1158年〜1192年)
◆ 2.後白河院政の3つの時期に分けた流れと特色
🔹【第1期】平清盛との協調と対立(1158〜1179)
- 1159年:平治の乱勃発。源義朝が敗北し、平清盛が台頭。
- 清盛は後白河を支えつつ、軍事・経済力を蓄える(娘を天皇の中宮に入れるなど外戚化)。
- 後白河は清盛を使いつつも、つねに牽制していた。
👉 協力と対立がせめぎ合う、不安定な政権運営
■ 1179年:「治承三年の政変」
- 平清盛がクーデター的に後白河を幽閉(鳥羽殿幽閉) → 院政一時停止
🔹【第2期】清盛の死と後白河の復権(1181〜1183)
- 1181年:平清盛死去 → 平氏政権の求心力低下
- 1183年:源義仲が京に入って後白河を解放・復権させる
👉 後白河はここから、源氏(義仲→頼朝)との間で巧みに権力のバランスを取るようになる
🔹【第3期】頼朝との交渉と鎌倉幕府の萌芽(1183〜1192)
- 1185年:壇ノ浦の戦い → 平氏滅亡
- 後白河は源義経を寵愛 → 頼朝と対立
👉 しかし、最終的には頼朝を「征夷大将軍」に任命(1192年)
▶ 重要ポイント:
後白河はこの時、頼朝に「守護・地頭」の設置を許可しており、
これは鎌倉幕府成立の布石となった。
◆ 3.後白河院政の特徴と影響
▶ ① 権力バランスの巧みな操縦
- 平清盛、源義仲、源義経、源頼朝……複数の武士勢力を利用・分断・対立させることで、自らの権力を維持
- 誰にも「完全には依存しない」姿勢が後白河の政治術の特徴
▶ ② 経済基盤:莫大な「院領荘園」
- 後白河は広大な荘園ネットワークを保有(特に近江・山城など)
- また、仏教寺院(比叡山や蓮華王院=三十三間堂)との連携により、寺社勢力を政治に取り込む
▶ ③ 文化事業への傾倒
- 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』:今様(歌謡)を編纂
- 蓮華王院(三十三間堂)の建立など、院政文化の中心人物
◆ 4.後白河法皇の評価:操り人形か、したたかな政治家か?
後白河は歴史家の間で賛否両論です。
評価 | 内容 |
---|---|
◯ 高評価 | ・乱世を巧みに生き抜いた“政治の天才”・文化振興の功績(今様文化) |
× 低評価 | ・武士の台頭を止められず、鎌倉幕府の成立を許した・対立と混乱を招いた“策士” |
→ しかし総じて言えば、貴族政治の終末と武家政治の始まりをつなぐ象徴的存在と言えるでしょう。
◆ 結論:後白河院政とは何か?
「古代の終わりと中世のはじまりを、その手の中で操った男」
― 後白河は、日本の政治権力の構造を「天皇→上皇→武士」へと移行させる節目に立ち、
その30年にわたる院政は、平安貴族社会のラストシーンと鎌倉武家政権の序章を同時に内包しています。
承知しました。
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、後白河法皇の後を継ぎ、**鎌倉幕府との対決(承久の乱)**を主導した人物です。彼の院政は、古代的天皇制の復権を志向する最後の試みともいえ、日本の中世政治構造に深い爪痕を残しました。
以下、後鳥羽院政の背景・展開・意味を詳しく述べます。
◆ 1.後鳥羽院とは誰か?
- 生没年: 1180年 ~ 1239年
- 即位: 1183年(満4歳)※実際は院政下の象徴的即位
- 在位中: 政務は実質的に後白河 → ついで源頼朝が掌握
- 退位: 1198年(満18歳)→ 上皇として院政開始(1198~1221)
◆ 2.後鳥羽院政の背景:天皇親政への執念
後鳥羽は、
- 知識人で文化人でありながら、非常に政治的野心が強かった
- 幼少から即位し、「政務から排除されてきた」という強烈な自意識を抱えていた
彼は、院政の復権・朝廷権威の回復を志向し、特に将軍源頼朝の死(1199年)以後、
「もはや武家は朝廷の家来である」として次第に幕府を軽視・敵視していきます。
◆ 3.院政の展開:政治・文化・宗教の多方面戦略
🔹① 政治:朝廷主導の再建志向
- 幕府に対し「守護・地頭の任命権」を取り戻そうと画策
- 公家・貴族・西国武士(西面の武士)を組織し、軍事力を整える
👉 西面武士(さいめんのぶし):後鳥羽直属の親衛軍。院の軍事力の核。
🔹② 文化:中世文化の総合芸術家として
後鳥羽は、武士であると同時に、卓越した文化の庇護者・実践者でもありました。
- 和歌:自ら勅撰和歌集『新古今和歌集』(1205年)を編纂
→ 自身も優れた歌人(「後鳥羽院御集」) - 書道・蹴鞠・刀剣収集にも長ける
- 宗教:法然・親鸞の専修念仏(浄土宗)に対して強く警戒、専修念仏停止令を出す(1207年)
👉 天皇こそが文化・宗教・武の最高権威であるという理念
◆ 4.クライマックス:承久の乱(1221年)
▶ 背景
- 幕府実権が北条義時に移ると、後鳥羽はこれを「下剋上」とみなす
- 1221年、**義時追討の院宣(いんぜん)**を全国に発布
▶ 展開
- 幕府は直ちに全国の御家人を動員、軍を京都に進める
- 朝廷側(後鳥羽・土御門・順徳の三上皇)vs 幕府軍
👉 圧倒的な兵力差により、朝廷側が完敗
▶ 結果
- 後鳥羽上皇:隠岐(現在の島根県)に流罪
- 土御門上皇:土佐(のち阿波)へ
- 順徳上皇:佐渡へ
- 鎌倉幕府の優位が確定し、「朝廷による武家支配」は完全に終焉
◆ 5.後鳥羽院政の歴史的意義
【1】天皇親政の終焉
後鳥羽の試みは、天皇親政・貴族政権の最後の挑戦でした。
観点 | 内容 |
---|---|
政治 | 武士政権(幕府)を打倒しようとしたが失敗 |
経済 | 幕府は勝利後、「新補地頭制度」を全国に拡大 → 荘園制の転換点 |
文化 | 『新古今和歌集』に象徴される王朝文化の総決算期 |
【2】幕府による朝廷監視体制の確立
- **六波羅探題(ろくはらたんだい)**が京都に設置(1221年以降)
- 朝廷の政治行動が武家によって監視・制限される体制が完成
◆ 6.後鳥羽院という人物の特異性
側面 | 内容 |
---|---|
🌸 文人 | 日本文化の精華を自ら体現した「芸術天皇」 |
⚔️ 武人 | 武士的気質にも富み、自ら刀を打つ鍛冶場に立ったという逸話も |
🧠 政治家 | 天皇中心の秩序再建に固執した、誇り高き理想主義者 |
😔 悲劇性 | 承久の乱敗北により、政治の実権を天皇家は失い、形式的存在へ |
◆ 結論:後鳥羽院政とは何だったのか?
「王朝国家の夢の終焉」
後鳥羽上皇は、天皇親政と王朝文化の復興という理念を実現しようとした、最後の古代的君主でした。
だが、現実の政治・軍事はすでに武士のものとなっており、承久の乱はその落差を浮き彫りにしました。
以降、日本の天皇は**「祈り、歌い、儀式を司る存在」として象徴性を強める**ことになります。
「西面の武士(さいめんのぶし)」は、後鳥羽上皇が独自に組織した軍事親衛集団であり、鎌倉幕府に対抗して院政による天皇親政体制を維持・強化するための重要な軍事的基盤でした。以下に、その構造と歴史的意義を詳しく解説します。
◆ 概要:西面の武士とは何か?
項目 | 内容 |
---|---|
成立時期 | 13世紀初頭(後鳥羽院政下、1200年頃〜) |
所属 | 後鳥羽上皇直属の武士集団(院近臣) |
任務 | 警備、儀式の護衛、軍事訓練、軍事行動への備え |
語源 | 院御所の「西側(西面)」に詰めていたことに由来する |
◆ 背景:なぜ西面の武士を設けたのか?
鎌倉幕府が成立し、地方武士を掌握する中で、朝廷・院政側は軍事的手段をもたず、実質的に無力化されつつありました。
後鳥羽上皇は、
- 武士の存在を否定するのではなく、
- 「朝廷こそが本来の武士の主である」という理念を掲げ、
- 自らの直属軍を構築して、幕府と対抗しようとしました。
このとき整備されたのが「西面の武士」です。
◆ 組織構造と性格
🔹 ① 選抜方法
- 地方在住の武士の中から、後鳥羽院に忠誠を誓う者を直接召し抱える形式。
- 公家の家人や、荘園を介して結びついた武士を中心に構成。
👉 幕府ではなく、**院の恩恵(昇進・知行など)**によって結びついていた。
🔹 ② 任務内容
任務 | 内容 |
---|---|
警護 | 院御所の警備、儀式の際の供奉(ぐぶ) |
軍務 | 武芸訓練・戦時の軍事動員の予備力 |
儀礼 | 蹴鞠や流鏑馬、狩猟などの文武両道行事への参加 |
実戦 | 承久の乱における戦力の中核(ただし敗北) |
🔹 ③ 組織の特徴
- 定員や階級制度があったとされるが、詳細は未詳。
- 実態は「武士と貴族の中間的存在」とも言える。
- 勤務地が院御所であるため、都で活動する職業軍人的性格もあった。
◆ 西面の武士の代表的人物
- 藤原秀能(ひでよし)
後鳥羽に近侍し、新古今和歌集の撰者でもある文武両道の武士。 - 平忠度(たいらのただのり)
平家出身で教養ある武士。(ただし、平氏滅亡前) - 院方の在京武士たち
中下級貴族の子弟が武士化して参加する例も多い。
◆ 歴史的意義
観点 | 意義 |
---|---|
政治 | 朝廷による独自の軍事力構築の試み |
武士社会 | 「幕府に従わない武士」=反幕的武士の受け皿 |
文化 | 院政文化の中で、文武を兼ね備えた理想像が育成される |
院政の限界 | 承久の乱で敗北し、西面の武士も壊滅。以後復活せず。 |
◆ 西面の武士の終焉
承久の乱(1221年)で、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じて挙兵した際、
- 西面の武士たちは主力として動員されたが、
- 全国の御家人を動員した幕府軍には到底敵わず、
👉 院政軍はあえなく潰滅。
👉 西面の武士という制度そのものも、ここで完全に崩壊しました。
◆ 結語:西面の武士とは何だったか?
朝廷が武士社会に適応しようとした最後の実験
後鳥羽上皇は、天皇=武家の主という古代的理念をもとに、中央集権的な軍事力を復活させようとしました。その象徴が「西面の武士」です。
しかし、日本の政治と軍事の中心はすでに「地頭や守護を基盤とした鎌倉幕府」に移っており、中央の象徴的武士ではそれに抗しきれませんでした。
西面の武士の興亡は、王朝国家から武家国家への転換を象徴する出来事と言えるでしょう。
現在、一般会計よりも特別会計がおいしいとも言われている。
日本で「特別会計(とくべつかいけい)は“おいしい”」と揶揄的に言われる背景には、以下のような構造的・制度的な事情があります。これは主に財政の透明性の低さ、予算の硬直性、既得権の温存構造などと関係しています。
◆ 一般会計と特別会計の違い(前提)
会計区分 | 内容 | 規模(2024年度) |
---|---|---|
一般会計 | 国民の税金が入る「メインの財布」。防衛・教育・福祉など幅広い使途 | 約112兆円 |
特別会計 | 目的別に設けられた“別財布”。年金、道路、国債管理、労働保険など多数 | 約400兆円超(重複含む) |
◆ 特別会計が「おいしい」と言われる理由
① 見えにくい=チェックが甘い
- 特別会計は国会審議の注目度が低く、メディアでもほとんど報道されない。
- 巨額な予算が動いているのに、内容がブラックボックス化しがち。
- 会計検査院の監査対象ではあるが、実質的には**“お役所の懐”**として使われる余地がある。
👉 結果:「天下り官僚の利権温存装置」と批判されることも。
② 財源が独立していて“潤沢”
- 特別会計には**特定の財源(例:年金保険料、ガソリン税、郵便貯金など)**が紐づいており、
- 一般財源と違って「使い道が決まっている」とされているが、実際には自由度が高く流用的に使われる場合も。
例:
- 道路特定財源 → 無駄な道路建設、箱モノ建設
- 労働保険特別会計 → 雇用促進住宅などの“使い切り予算”
👉 「使わないと減らされるから使い切る」という悪循環が生まれる。
③ 巨大な埋蔵金と剰余金の存在
- 特別会計には“見えにくい貯金”が存在し、
- 数兆円規模の剰余金や積立金が眠っている場合がある。
例:
- 財政投融資特別会計(昔の大蔵省資金運用部)は郵貯・簡保マネーの運用で巨額資産を形成。
- 国債整理基金特別会計では帳簿上の債務と資産が相殺しづらい構造により余剰資金が生まれやすい。
👉 政治的に「景気対策の財源」に見立てて使われることも。
④ 政官業の癒着温床になりやすい
- 特別会計に関係する独立行政法人、外郭団体、財団法人などへの天下り先が多く、
- 会計上の流れが複雑であることを口実に、利権構造の温存が可能。
👉 例:「年金機構」や「高速道路関連団体」「農水省の補助金事業」など
◆ 特別会計の数と実態(2020年代)
会計名 | 主な使途 | 備考 |
---|---|---|
国債整理基金特別会計 | 国債の償還・利払い | 最大規模の特別会計(100兆円超) |
財政投融資特別会計 | 政府系金融機関への資金供給 | 昔の「第二の予算」 |
年金特別会計 | 厚生年金・国民年金の運営 | 巨額な積立金 |
労働保険特別会計 | 雇用保険、労災保険の給付 | 使い切りの典型 |
◆ 結論:なぜ「おいしい」のか?
- 巨大な予算(一般会計の3〜4倍規模)
- チェックが甘く、裁量が広い
- 利権化・既得権化しやすい
- 政治的圧力が及びにくい
そのため、**政策決定層・官僚にとって“使いやすい財布”**であり、「おいしい」と言われるのです。