発揚と、その終わりに向き合うとき
私たちはしばしば「元気すぎる人」「疲れを知らない人」「陽気で活動的な人」に出会います。そうした姿勢は、時に周囲を惹きつけ、リーダーシップとしても高く評価されます。しかし、そうした活力に満ちた姿の背後に、抑え込まれた苦悩や孤独、無力感があることも少なくありません。
躁的防衛としての発揚――Akiskalの理論から
このような状態を、精神科医アキスカル(Hagop S. Akiskal)は「躁的防衛(manic defense)」という言葉で説明しました。躁的防衛とは、本来ならば抑うつに陥るような状況に対して、あえて高揚感や過活動で応じ、自分の苦しみを無意識のうちに否認する心の働きです。 Akiskalは、うつと躁を明確に分けるのではなく、気分の揺れを連続的(スペクトラム)なものとしてとらえ、人格傾向や気質の中にその萌芽があると考えました(1。
その中でも「発揚気質(hyperthymic temperament)」は、特に躁的防衛と親和性が高い気質とされます(2。 発揚気質の人は、 常に前向きで、 エネルギッシュに活動し、 疲れを感じず、 外向的で、 周囲から魅力的に見られやすい、 という特徴を持ちます。 しかしこの気質の背景には、「疲れ」や「無力感」といった感覚へのアクセスの困難さがあります。つまり、抑うつという「沈むこと」ができないがゆえに、あえて「浮き続ける」ことで自我を支えているという側面があるのです。
現代の精神分析理論の中には、幼い頃の心の傷や、大人になってからの生き様の中に潜む複雑な感情に向き合うための工夫が数多く見られます。
たとえば、Kleinは、幼い頃に大切な対象との別れや喪失体験に直面した子どもが、その辛い現実に耐えかねて、あたかも全能であるかのような空想の世界に逃避する姿を描き出しました。彼女は、幼少期において直接体験することができない苦痛を、万能感や支配欲といった幻想を通して否認し、心の安定を図ろうとする防衛機制を「躁的防衛」と呼びました。この考え方は、幼い心が現実の厳しさに直面する際、内面に広がる虚構の世界を利用して自我を守るという、非常に繊細で痛ましい側面を浮き彫りにします。
一方で、Akiskalは、同じ「躁的防衛」という現象を、大人になった後の気質や生活歴の中で捉え直しています。つまり、幼少期に生じた防衛メカニズムは決して一過性のものではなく、成人期においても持続し、個人の性格や行動パターンに影響を与え続けるという見方です。Akiskalの視点は、成熟していく中での心の在り方を重視し、私たちが日々の生活の中で自己をどのように守り、また時にはその防衛がもたらす偽りの元気さにどのように向き合うかを考える手がかりを与えてくれます。
Winnicottの理論に目を向けると、彼は私たちが自己を守るために「偽りの自己」を構築するという現象に着目しました。外見上は明るく、適応的に振る舞うその姿は、実際には深い孤独や脆さ、そして自己への断絶感を隠すためのものです。Winnicottは、私たちが本当の自己をさらけ出すことができないとき、あるいはそれに直面する勇気を持てないとき、外側に見える活発さや適応の良さが、内面の苦悩から自分を守るための外殻となると説きました。こうした偽装的な元気さは、まさに内面に潜む孤独や絶望の痛みを覆い隠す一つの手段と言えるでしょう。
ここで興味深いのは、Akiskalの「躁的防衛」における「発揚」という現象です。これは、一見すると活発で前向きなエネルギーのように見えますが、実際には深い孤独や絶望、そして自己の根底にある苦痛を否認するための防衛的な働きの一環であると考えられます。
Winnicottの視点から見ると、この偽装された元気さは、真の自己が持つ弱さや傷つきやすさを隠すための仮面に過ぎません。さらにWinnicottは、時には沈黙や空虚な状態、あるいは一時的な退行状態にとどまることも必要だと説いていますが、Akiskalの理論では、あまりにも活動的であり続けることで、成熟した抑うつ状態に至るのを回避しようとする自己保存のメカニズムが働いていると捉えられます。
このように、幼少期の痛みや喪失体験が、成人してからも私たちの内面に影響を及ぼし続けるという考え方は、決して楽なものではありません。むしろ、これらの理論は、自己の中に潜む苦痛と向き合う勇気や、たとえ偽りの元気さを装っていたとしても、その背後にある深い孤独や悲しみを認めることの重要性を教えてくれます。Akiskalの理論は、こうした防衛メカニズムが単なる幼少期の現象ではなく、大人になってからも私たちの生き方や性格に大きな影響を与え続けることを示しており、その認識は自己を受け入れるストーリーを紡ぐ上で大きな示唆となります。
日本社会における「発揚」
Akiskalの理論は、双極性障害の新しい理解として注目されましたが、一部では「正常範囲の気分まで病理化している」との批判もあります(5。しかし、日本社会においては、この「発揚」というあり方こそが、ある種の理想像として内面化されてきた歴史があります。 例えば、戦後の高度経済成長期には「モーレツ社員」「24時間働けますか」といったキャッチコピーが流行し、疲労や無理に気づくことが「甘え」とされてきました。現代においても、「ブラック企業」や「過労死」という社会課題がある中で、感覚機能を鈍らせてまで働き続けることが美徳とされる傾向は根強く残っています。 つまり、発揚気質の人だけが疲れに気づきにくいのではなく、社会全体が「発揚を強要する文化」を内在化しているともいえるのです。
架空の事例:Aさん(60代男性)
Aさんは若い頃、学生運動に情熱を傾け、社会人になってからも職場のエースとして活躍してきました。人とぶつかりやすいものの、どこか人懐こく、周囲との関係を築く力も持ち合わせていました。 40代での栄転後も過活動は続き、長距離通勤をこなしながら深夜まで働き、飲み会をこなす日々。ところが60歳を迎えた頃から高血圧が見つかり、徐々に体力の限界が訪れました。やがて抑うつ的になったものの、それでも仕事を続け、最終的に脳血管障害に倒れました。 Aさんは、「抑うつになる前に壊れてしまった」ケースです。発揚というブレーキの壊れた車は、どこかで必ず止まるということを示唆しています。
感覚機能を取り戻すということ
ユングは人間の認知機能を「思考」「感情」「直感」「感覚」の四つに分類し、それぞれに“優越機能”と“劣等機能”があると述べました(6。これは、私たちが生きていくうえで、どの機能を主に使い、どれを後回しにしているかという偏りを意味します。
発揚気質の人は、この中で「直感」や「思考」が優越機能となりやすく、「感覚」や「感情」が後回しにされがちです。 彼らは未来を見越して物事を進めるのが得意で、頭の中で「これはやるべきだ」「まだできる」と計画的に動きます。けれど、「疲れた」「しんどい」「もう限界かもしれない」という身体や心からの“今ここ”の信号を感じ取るのが苦手です。 この「疲れの鈍さ」は、若い時期には長所として働きます。体力があるうちは、多少の無理も通ってしまうからです。 しかし、中年以降、体の衰えが始まると、それまでのように押し切ることが難しくなります。それでも感覚機能が十分に働いていないと、「もうこのペースは続けられない」「少し減速しよう」といった判断が下せません。すると、無理を重ね、思わぬかたちで心身に破綻が訪れます。
カウンセリングの場面では、はじめは「疲れ」を感じていないと言っていた方が、次第に身体や心の微細な違和感に気づき、「ああ、自分はずっとしんどかったんだ」と振り返る場面が訪れることがあります。それは、感覚機能が回復し始めた証であり、回復への重要な第一歩です。
発揚の終焉と回復の可能性
発揚気質の人の多くは、「疲れる」こと自体に抵抗を持っています。
「まだできる」「もっとやれる」「今ここで止まるわけにはいかない」――そうした内なる声に突き動かされ、走り続けてしまうのです。けれど、どんなに強靭に見える身体も、どこかで限界を迎えます。 発揚の終わりは、ある日突然やってくるものです。そしてその時には、うつになる余裕もないほど深い疲労感が心身を覆っていることもあります。そして、恐ろしいのは、限界が来たときに初めて「もう休めない」ほどになっていることです。 抑うつにすらなれず、ただ重たく、鈍く、感情も思考も動かなくなってしまう。「もう、何もしたくない」ではなく、「何もできないし、感じない」という地点まで追い込まれてしまう方もいます。
この状態に至ると、そこからの回復には時間がかかります。 発揚のエネルギーに代わる、新しい生き方を見つけていく必要があるからです。これまで突き進んできた道を、少し戻ったり、歩調をゆるめたり、まったく別の方向に目を向ける柔らかさが求められます。 その過程で重要になるのが、「感覚」の回復です。 気温の変化に気づくこと、身体の痛みをそのまま痛みとして感じること、食べ物の味を味わうこと、誰かの言葉にちょっと泣きそうになること――そうした繊細な感覚が、回復の入り口なのです。
人間の限界はそう大きくありません。にもかかわらず発揚気質の人は、「まだやれる」「昔のように」と自分を駆り立て続け、身体の限界を見落とすことが少なくありません。 「疲れを感じる」という感覚が回復されていくことで、自らの無理にようやく気づく方もいます。その瞬間、それまで押し込めていた痛みや弱さが、ようやく言葉になっていくのです。
最後に――「疲れた」と言える勇気
現代社会は、「もっと頑張れる自分」「何者かになれる自分」を求めて、私たちを駆り立てます。 発揚気質の人は、そうした期待に応えようとするうちに、自分の感覚や限界を置き去りにしてしまうことがあります。 けれども、どんなに立派に見える外側の自分も、本来の「私」という存在はひとつきりです。 そしてその「私」は、決して交換可能なものではありません。壊れてしまえば、誰も代わってはくれません。 「疲れた」「もう無理かもしれない」「今は休みたい」 こうした言葉を口にすることは、敗北ではなく、人生を続けるための智慧です。
「発揚」は単なる感情の高まりではなく、絶望の反動としての上昇(exaltation)であり、心の深層にある不安や喪失を覆い隠すために動員される。つまり、発揚は「生きている」ことの実感を強化する代償的な構えであって、他者に対しても自己の活力を証明しようとする形で表出されることが多いものです。
私たちは、発揚のエネルギーだけで生きていくわけにはいきません。 いつかその火が消えるときが来ます。けれども、そのあとに残る自分を大切にすること――そこにこそ、本当の回復と成熟の可能性があるのではないでしょうか。
「無理していない」「これが普通」 そんな言葉で自分の限界を曖昧にしていませんか? 発揚に支えられた日々は、ある意味で人生の“前借り”だったのかもしれません。カウンセリングの場では、そうした方が「疲れた」という感覚を取り戻し、自分の無理にようやく気づいていかれる瞬間があります。けれども、私たちの身体や心は、たったひとつきりの「乗り物」です。その乗り物が発するささやかなサインに気づく感覚を、今一度取り戻す必要があるのです。
参考文献
1 Akiskal, H. S.(2002). The bipolar spectrum: new concepts in classification and diagnosis. Bipolar Disorders, 4(Suppl.1), 1–7.
2 Akiskal, H. S.(1998). Toward a definition of generalized anxiety disorder as an anxious temperament type. Acta Psychiatrica Scandinavica, 98(s393), 66–73.
3 Klein, M.(1940). Mourning and its relation to manic-depressive states. In The Writings of Melanie Klein, Vol. 1. Hogarth Press.
4 Winnicott, D. W.(1965). The Maturational Processes and the Facilitating Environment. Hogarth Press.
5 仙波純一(2011). 「双極スペクトラム概念の問題点を考える」. 精神経誌, 113(12), 1200–1208. https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1130121200.pdf
6 Jung, C. G.(1921). Psychological Types. Princeton University Press.(邦訳:『タイプ論』林道義訳、創元社)
発揚性気質(または循環気質)は、双極性障害(躁うつ病)になりやすい性格特性の一つで、活動的で自信に満ち、社交的で楽観的な傾向を持つ気質のことです。
発揚性気質の主な特徴:
- 活動的で自信に満ちている:何事にも意欲的で、積極的に行動する傾向があります.
- 社交的で楽観的:人と関わることを好み、明るく前向きな性格です.
- 感情の起伏が比較的大きい:躁状態とうつ状態を繰り返す双極性障害の症状と関連がある場合があります.
発揚性気質と双極性障害:
発揚性気質を持つ人が必ずしも双極性障害になるわけではありません。しかし、この気質は双極性障害の症状と関連する可能性があり、特にストレスや過度の負荷がかかった場合に、躁状態やうつ状態に移行しやすい傾向があると言われています.
発揚性気質と他の気質との関係:
- メランコリー親和型:真面目で几帳面、責任感が強いなど、うつ病になりやすいとされる気質.
- 粘着気質:物事に執着しやすく、完璧主義的な傾向がある気質.
これらの気質は、それぞれ異なる特徴を持つものの、ストレスに対する脆弱性や、特定の精神疾患のリスクと関連している可能性があります.
まとめ:
発揚性気質は、双極性障害の背景にある性格特性の一つであり、活動的で自信に満ち、社交的な傾向を持つ気質です。この気質を持つ人が必ずしも双極性障害になるわけではありませんが、ストレスに対する脆弱性や、感情の起伏の大きさと関連があるため、注意が必要です.
Ghaemiによる双極スペクトラム障害の
診断基準の提案
A.少なくとも1回以上の大うつ病エピソード
B.自発性の軽躁ないし躁病エピソードがない
C.以下のうちの1つおよびDのうち少なくとも2つ,あるいは以下の2つとDの1つを満たす
1.一度親族に双極性障害の家族歴
2.抗うつ薬誘発性の躁病ないし軽躁病
D.Cの基準を満たさない場合は以下の9項目のうち6つを満たすこと
1.発揚性人格
2.再発性の大うつ病エピソード(3回以上)
3.短期大うつ病エピソード(平均3カ月以下)
4.非定型的抑うつ症状
5.精神病性の大うつ病エピソード
6.早期の大うつ病エピソードの発症(25歳以下)
7.産後うつ病
8.抗うつ薬の効果の消退(予防投与ではなく急性期に)
9.3種類以上の抗うつ薬による治療に反応しない
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兵薬界 No.580,2004年05月号 |
2004年 05月 01日 |
躁状態は病的な爽快気分を基盤として、多動、多弁、興奮、誇大的思想や観念奔逸などの症状を示す状態で、躁病の際に最も典型的にみられる。 躁状態では、患者は楽天的・爽快・明朗で自信に溢れ、自分の地位や才能、財産などを全て過大に評価宣言し、一方で他人の考えや行動に過度に干渉して自己の考えを無遠慮に主張して押し付ける。個々の話題については支離滅裂にはならないが、話題が転々とするので全体としてまとまらない。 朝早く目が覚め、夜は遅くまで起きていても疲れない。楽天的な見通しを立てて仕事に着手し浪費が起こる。他人から見ると無軌道な行動に対しても羞恥心や反省がない。食欲や性欲は一般的に亢進し、寒さに対する抵抗も強くなる。 病気の初期には爽快気分が著明であるが、間もなく周囲の人々と摩擦を起こし、不機嫌で怒りっぽく、攻撃的になることが多い。家族、友人、医師などに悪口雑言の限りをつくし、時には暴力行為に及ぶことさえある。 従来わが国では、このような躁病性の精神運動興奮を統合失調症の衝動行為と誤診されることがかなり多かったのではないかと思われる。病識のない躁病患者がいきなり強制的に医療の対象とされれば、攻撃的になるのはむしろ当然で、これらの症状には感情移入が可能である。躁病では一次性の関係被害妄想、作為体験、幻聴などがみられない。 躁状態は躁病の他に多発性脳梗塞、進行麻痺、慢性脳炎のような脳器質疾患や甲状腺機能亢進症、ステロイド投与時などにもみられる。もともと軽躁的な性格を示す発揚性の人格障害の人もいる。他人にさほど大きい迷惑をかけない軽躁状態は、外来治療が可狽ナある 躁状態の既往のある人は、自ら医師を受診することも少なくない。リチウムの導入で、きちんと服薬すれば1?2週間で完全に正常に復することもある。しかし、一般に患者が医師の前に現れるのは、家族や友人が患者の言動に困り抜いた結果であることが多く、外来治療では服薬も不確実で治療が上手く進まない。既往に躁状態を反復しており、通院・服薬が不確実と予想される場合や、躁状態が改善の方向に向かわない場合は入院させる。 |
文献・風祭・向精神薬療法ハンドブック(1999) 文責 : 大平 洋 |
躁うつ病(双極性感情障害)と共感・創造力:「一流の狂気」とは

躁うつ病(双極性障害、双極性感情障害)の人の中には一般よりも優れた能力を持つ人が比較的たくさんいて、中には天才的なレベルにまで達している人もいます。それは、私もこれまでの臨床経験で実感しています。
しかし、躁うつ病はもちろん病気ですから、病気の人が一般の健康な人よりも優れた能力を持つ、というのは奇妙に聞こえる人も多いと思います。一方で、「天才と狂気は紙一重」、とは大昔から言われてきたことです(およそ2500年前のアリストテレスが指摘していますし、この100年ほどの間にも何人もの精神医学者が指摘しています。私の師匠の中井久夫も『天才の精神病理』(岩波現代文庫)の中で天才の例を挙げて解説しています。)
心を病む人、一般とは違う精神特性を持った人が時代を変えるような働きをすることは、躁うつ病に限らず、統合失調症、不安障害(不安神経症)、うつ病、発達障害、パーソナリティ障害(人格障害)など、他の精神疾患でも見られることですが、特に、躁うつ病と天才的な能力との関係、なかでも躁うつ病とリーダーシップとの関係に焦点を当てた論考として、今回は『一流の狂気ー心の病がリーダーを強くする』(ナシア・ガミー著、山岸洋・村井俊哉訳、日本評論社)を挙げたいと思います。
ガミーは、危機の時代にあっては、常識人的な人物よりも精神的に病んでいる人の方が集団を良い方向に導く例を挙げています。例えば、アメリカ南北戦争の時のマクラレンに対するシャーマン、第二次世界大戦のイギリスにおけるチェンバレンに対するチャーチル。いずれも前者は常識的で善人ですが、戦時のリーダーとしては無能であり、逆に後者はエキセントリックでファナティックですが(ガミーの診断では躁うつ病、もしくは躁うつ病の体質である発揚気質)、結果として危機を乗り切る有能なリーダーであったことを鮮明に描いています。
ガミーは、戦争のような危機的な状況だけでなく平時にあっても、たとえば起業家がライバルと競争して会社を大きく成長させる時にも、躁うつ病の人が活躍する、もっと言えば、躁うつ病もしくは躁うつ体質(発揚気質)こそが社会的成功を生み出した、とも説きます(例:CNNテレビのターナー)。
ではなぜ躁うつ病・発揚気質の人が天才的な能力を発揮するのか。ガミーは四つの要素をを挙げます。その四つとは、リアリズム(正しい現実認識)、レジリエンス(反発力、回復力)、エンパシー(共感)、クリエイティビティ(創造力)です。その中でもガミーは、共感力や創造力に天才の能力の淵源を求めます。
エンパシー(共感)とは何か。細かく話すと難しくなりますが、ここでは簡単に言って「他人の気持ちがわかる」「他人と心を合わせて動ける」「仲間全体の意見をまとめられる」と言って良いかと思います。
躁うつ病の人は、その共感能力が高く、他人の気持ちを察することに長けています。「仲間」「友達」「同志」を作り上げる能力が高いのです。そのような共感能力に長けたリーダーとして私たち日本人がよく知る人としては、西郷隆盛を思い浮かべるのが良いでしょう。西郷は情に厚く、男からも女からも(犬からも?)慕われ、敵対関係ができても相手に対し温情を忘れずにいました。日本の各地に彼に魅了され、彼を慕う人ができました。彼は、自分とは違った立場、いろいろな境遇にある人とコミュニケーションする能力に優れていました。ひとたび相手と意気投合すれば一心同体、運命共同体となりました(僧侶の月照と一緒に入水自殺を図ったエピソードに典型的に表れています)。
仲間や同志を作って良い関係を築ける協調性という点ではうつ病の人も同じく得意なところですが、躁うつ病の人には、社交性があり集団のリーダーとなるエネルギーがあります。集団の持っている問題が何であり、それを解決するためにはどのように集団を導いていけば良いのか、という問題発見・解決能力に優れています。そのような問題発見と問題解決能力のことをガミーはクリエイティビティ(創造力)と呼んでいます(ピカソのような独特な作品を創り出す創造力とは違う意味合いでの創造力なのです)。
このように書いてくると、躁うつ病は良きリーダーになるためにはむしろ有利な病気と思われ(実際、ガミーの本の邦訳の副題は「心の病がリーダーを強くする」となっています)、躁うつ病の人に元気・勇気を与えるところもあり、それはそれで結構なことです。しかし、たしかに一部の天才や成功者に注目すると躁うつ病は独創性や生産性のある病気なのですが、躁うつ病という病気自体は本人にとって、もしくは家族や部下など周囲に人にとっては苦しく、時には自殺や迷惑行為、反社会行為など、悲劇的な問題を起こすことも多いのです。(ガミーの本の中ではヒトラーの章にその悲劇的な側面がよく描かれています)
私のような普通の町医者の観点からすると、躁うつ病の共感能力や創造性などの魅力的な側面に惹かれるところはあっても、あくまで患者さんの健康と命があってのことですから、患者さんが天才的な能力を発揮することを目標にはしていられません。たしかに躁うつ病の躁状態は、エネルギーにあふれて創造力が高まる時ではありますが、躁状態は病気の状態ですから必ず終わりが来て、その後には必ず抑うつ状態になります。躁状態が激しければ激しいほどその後の抑うつ状態が強いものになります。その時の抑うつ状態では「死にたい」という希死念慮が強まり、実際に自殺を企てる人もいます。また、躁状態の期間に比べ、うつ状態の期間は長く、患者さんの苦しみは強いものです(かのウインストン・チャーチルもうつ状態を「黒い犬」と呼んで抑うつをひどく怖れていました。)。
そういう実情を踏まえると、躁うつ病の治療としては、まず躁状態を予防するか躁状態を軽く済ませることが目標となります。しかしながら、ガミーが描いたように、躁状態には凡人が真似できない大きな仕事をできる場合があるので、患者さんや周囲の人が躁状態を待望することがあります。私が治療した芸術家や実業家のケースでもそういうことがありました。このような場合、患者さんやご家族の希望を無視して単なる躁状態の鎮静という「治療」を押し付けずに、躁うつ病(双極性障害)の病気について説明し、躁状態の後の抑うつの苦しさ、自殺企図などの危険を理解していただきながら、患者さんの生きがい、人生の目標をも加味しながら、一緒に治療目標を定めていくことになります。
心の病全てにわたって言えることですが、病む人には何らかの魅力や特長があり、それに惹かれる人々が周囲にいます。そんな魅力や特長が治療を妨げるように見えることもありますが(経験が少ないか思慮の浅い精神科医やカウンセラーはそのように見なすこともありますが)、彼らの魅力や特長を否定した治療は結局成功しません。たとえ医学的な治療が上手く進んだとしても患者さんは幸せを感じません。患者さんを真に満足させ、生き生きとしてもらうためには、彼らの生き甲斐や人生観をも顧慮して治療に当たるべきだと思っています。それが私の理想とする「納得診療」です。
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お金を使いすぎる人、浪費する人とは――躁状態での浪費の意味
お金を使いすぎる人、後先考えずサラ金で借金してまで多額のお金を使ってしまう人につき、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。パチンコや競馬、宝くじなどで「一攫千金」を狙う人、ギャンブル依存の人を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、おおよそ30年前に精神科診療の教育を受けた当時の私は、浪費と聞けば躁うつ病の躁状態を第一に思い浮かべるものでした。
当時に、十万円百万円単位のお金を躊躇せず使ってしまう人は、気分が高揚して気が大きくなっている人がほとんどだったように思います。精神医学的には、気分高揚、多幸感、衝動性、行為心迫などといった躁状態を表す言葉で説明されますが、そんな専門用語で語らずとも、映画やドラマなどで、会社の課長さんなんかが、何か良いことが起きた時に「今日は俺の奢りだ、皆、いくらでも飲んでいけ!」みたいに勢いよく言うシーンを思い浮かべると良いかと思います。
そういう状況は、お祭り的な雰囲気です。多額のお金をパッと使う、というのは非日常的な時間に行われることです。そんな非日常な時間は、文化人類学的に言えば、「ハレ」「祝祭」「蕩尽」の時間であり、日常の時間である「ケ」「平常」「生産」の時間とは対極をなすものです。自分の大事なお金を惜しむことなくパッと使うことは、お祭り的であり、お祭り的であるということは、大枚をはたいて振る舞う個人だけではなく、みんながお祭り気分になれます。例えば、私が治療に関わらせていただいた、ある躁うつ病の患者さんは、躁状態になって気分が高揚すると周囲にも明るくなって欲しくなり、皆に何かとご馳走を振る舞ったりプレゼントを配ったりしたのですが、相手の人たちのノリが悪いと感じると疎外感を感じて、飛行機に乗って沖縄の島に渡りました。その道中でもキャビンアテンダントさんや他の搭乗客にお花やお菓子を配っていました。
そういう患者さんは、「一人祭り」をしているとも言えます。一人だけテンションが高くて高笑いして、周りの反応が冷めていても、彼の目に入っていません。
しかし、そんな躁状態で大盤振る舞いをする方を、「一人祭り」と一笑に付すだけでは、お金を使う、という人間的な行為の本質がわかっていないと言えます。
人類学の中でも、経済人類学の分野の教えによれば、人間がお金を使うのは、贅沢をする喜びや自己顕示欲によるものではなく、人が人とつながりたい、共同体が別の共同体とつながりたい、という、社会的な欲求に基づくものなのです。もっと言えば、人が他の人とのつながりを希求して経済活動を行なう時は、自分の損得や命を顧みずに、時には自己犠牲的な、命がけな行動を厭わないものであり、これは人間の本能的な行いとも言えます。例えば、マリノフスキ、モース、ポランニーといった人類学者が注目した、パプアニューギニアの「クラ(交易)」では、自給自足している共同体が、あえて危険な海を渡って交易をする行為の意味が分析されています。クラによる交易では、衣食住を含めた生活全般において、何の不足もない地域共同体が、あえて改めて貿易用の船を作って海を渡って物や人のやり取りを行います。そこには、現在の商社のような貿易商人の欲望、つまり、国境を超えて物を移動させることによって発生する利益を求める、という動機は全くありません。ただ単に、よその国の人たちと交流したい、という純粋な欲望があるだけです。
そのクラには、人間がお金を使う、経済活動をすることの本質が表れています。たとえ命の危険があろうとも、交易によって物的金銭的な損害が発生しようとも、他の共同体との「つながり」を優先するのは、人間社会の根本的な欲求であり、その欲求は個人や個別の共同体の生存欲求を凌ぎさえもする、根源的な欲求なのです。人は、「パンのみに生きる」ことは難しく、「つながり」「広がり」を求める社会的な生き物だと、人類学は教えます。
こう考えてみると、先ほどの躁うつ病の患者さんは、多額のお金を使って浪費しましたが、それは他人とのつながり、連帯感を希求しての行為だと思えるのです。彼のような人は、自分だけお金を儲ければ良し、とはせず、皆で一緒に歓喜の時を迎えたい、喜びを分かち合いたい、と思っているのです。彼は決して「一人祭り」を求めていたのではなく、「みんな一緒に」お祭り気分になりたい、と思っているのです。ただ、躁状態の人のテンションには、周囲がついていけないので、結果として「一人祭り」になってしまうのです。
躁状態での浪費、と決めつける訳ではありませんが、後先のことを考えずにお金をパッと使ってしまう人の例としては、野口英世が浮びます。彼の伝記を読むと、彼を留学させるための資金を篤志家らが英世に提供すると、盛大な飲み会を開いて皆に奢ってしまい、結果、留学に必要なお金に困ってしまう、という奇特なエピソードが出てきます(そういうことが複数回あったように記憶します)。勤勉、努力家で野心家である一方、自分だけが良ければ、という独善的だけにはならない振る舞いに、躁うつ気質を感じさせます(当時は近代日本であり、地縁血縁のつながりは切っても切れないもの、という風潮があった時代背景も考慮すべきではあるでしょう。夏目漱石もたくさんの親類を経済的に養っていたという話もあります。)。
少し長い話になりましたが、躁状態での浪費行為には、人としての根源的な欲求、他人とつながって集団のつながりを強くしようとする動機があり、浪費という行為には破滅的な意味ではなく、集団の連帯を作ってそれを強める力があると思います。そういう意味で、浪費とはとても人間的な行為だと思いますし、躁うつ病の人が、時には集団をまとめて調和させる力を持っていることを表しており、彼らの人間的な魅力を感じさせます。
ただ、実際に多額のお金を浪費してしまう躁状態の患者さんに対し、それをそのまま良しとしていては、多額の借金を抱えたり破産したりしてしまいます。臨床的なアドバイスを差し上げるとすれば、同じくお金を使うなら、他人との親密さを深めたり、新たな人とのつながりを得たり、何か創造的なことにお金を使うことを考えるようにと、勧めたいところです。また、躁うつ病の治療全般にも共通しますが、気分の波がある彼らに寄り添って、「このくらいの行動ならば良い」と助言してくれるような、マラソンのペースメーカー的な人がいて、金銭の使い方についてもアドバイスをいただけるのがベストでは、と思っています。
以上、躁状態での浪費行動の意味合いについて考えてみました。ただ、あくまで以上の話は浪費行動の中の一部についての説明です。この21世紀の現在では、全く違った意味合いの浪費行動があります。それについては稿を改めて書きたいと思っています。
1.双極性障害に多い性格傾向-循環気質とは? 社交性や親切を基本として、共感性や協調性を大切にするのが循環気質の方です。
双極性障害の病前性格としてもっとも有名なのものが、ドイツの精神科医のクレッチマーが提唱した循環気質です。さらにこのような性格は、肥満体型の方に多いとしています。
循環気質とは、社交的で人間味があふれ親しみやすく、他人への気配りも上手で周囲と同調していこうとする性格です。このような方は周囲の人間関係を盛り上げて、仕事も快活にバリバリこなします。社会的に成功を収めやすいといえます。
このように、社交性や親切を基本として、共感性や協調性を大切にするのが循環気質の方です。循環気質の中にも2通りの方がいて、活発で熱しやすい方と、気重で悲観的になりやすい方がいます。
多少の気分の波がありながらも性格とみなせる循環気質から、次第に循環病質、双極性障害へと病気に移行していきます。
2.双極性スペクトラム障害としての発揚気質・刺激性気質 躁病の最軽症型としての発揚気質・混合状態の最軽症型としての刺激性気質が提唱されています。
従来の気分障害は、単純にうつ病か双極性障害かに分けて考えられてきました。この両極端の状態で分類していくことに疑問を呈したのがアキスカルです。その両極端の状態には連続性があって、より細かくとらえる必要があると考えました。これが双極性スペクトラムという考え方です。
それに合わせて、気分障害の各病像の薄まった形として、以下の4つの気質が提唱されています。ひどくなると、各病気に発展していくと考えています。
発揚気質(躁病の最軽症型) 抑うつ気質(うつ病の最軽症型) 刺激性気質(混合状態の最軽症型) 気分循環性気質(気分循環症の最軽症型) このうち、双極性障害と関係が深い気質として、発揚気質と刺激性気質があげられます。
発揚気質とは、気分が常に高く前向きで、自信にあふれている性格です。社交的で話をすることがすきで、楽天的で精力的に行動します。あふれる自身に基づいて行動し、空回りすることも多いですが、リーダとなる人も多いです。
刺激性気質とは、気難しく不機嫌で、イライラしているのが目立ちます。批判や不満が多く、怒りっぽい傾向にあります。
3.執着性格とメランコリー親和型・マニー親和型性格 熱して冷めにくい執着性格、秩序を重んじるメランコリー親和型性格、自己を強く持っているマニー親和型性格が気分障害との関係が深いです。
これまでみてきた「気質」は、性格のもとになる遺伝的に生まれ持った特徴を意味しています。このような気質を備えている人は、双極性障害に自然と発展していきやすい要素があります。
これらの気質をもとに、発病していく原因に注目して性格傾向を分析したのが下田の執着性格であり、テレンバッハのメランコリー親和型・マニー親和型です。
執着性格とは、一度起こった感情が冷めにくく、むしろ熱しやすくなるのが特徴で、仕事に熱心で凝り性、几帳面で正直、強い正義感や義務感がある性格です。感情の興奮が続いて休息ができず、病気につながってしまうのです。
テレンバッハは、似たような性格傾向としてメランコリー親和型性格を提唱しました。秩序愛が基本にあって、良心的で義務を意識し、決まり事をきっちりと守る性格です。保守的で消極的な傾向にあります。秩序が保たれている時はよいのですが、そこに変化が加わってうまくいかなくなると破綻してしまって、病気に発展します。
その対極としてマニー親和型性格を提唱しています。自己中心的で秩序に対して複雑な感情(両価性)をもっています。権威に対して抵抗が強く、自分自身を強く持っています。エネルギーにあふれていて、凝り性で熱中する傾向にあります。
メランコリー親和型性格とマニー親和型性格を対極にすると、執着性格はその中間に位置します。メランコリー親和型はうつ病に親和性が強く、マニー親和型性格は双極性障害Ⅰ型に親和性が強いです。双極性障害Ⅱ型はこの中間に位置します。