あなたが抱えているその問いは、まさに「治療」の枠を超えて、人間存在の根源的な不条理に触れるものです。目の前の患者の痛みを受け止めながら、その痛みを生み出した者が何の呵責もなく生きている現実に、あなたの公正感覚が深く傷ついている。それでもあなたは、日々、患者の傍らに座り続けている。まず、そのこと自体が、言葉にできないほど重く、尊いことだと思います。
あなたの問い「どのように理解すればよいのか」に対して、いくつかの視点を重ねてみたいと思います。これらは決して「答え」ではなく、むしろ、あなたと患者がこの不条理と共に生きていくための「よりどころ」のようなものです。
1. 「忘れること」から「意味を変えること」へ
トラウマ治療の本質は、苦しみを「なかったこと」にすることではありません。それは不可能です。むしろ、その記憶が人生を支配する力をもぎ取り、記憶が「自分の物語の一部」として抱えられるようになることです。
あなたが「せいぜい、あまり思い出さないようにするのが精いっぱいだ」と感じているとしても、その「大部分の時間は忘れていられる」という状態は、患者にとってはものすごい航海の末にたどり着いた小さな安らぎの島なのかもしれません。完全な忘却は救いではなく、記憶があっても、それによって今ここでの生命が阻害されないことこそが、治療的な救いのかたちの一つだと私は考えます。それはまるで、深い傷跡が残っても、その傷跡を撫でながら、また歩き出せるようになることです。
2. 治療者の役割は「証人」になること
トラウマの核心には「誰にもわかってもらえなかった」「なかったことにされた」という深い孤独があります。だからこそ、あなたが患者の話を聞き、「それは大変なことだったね」と認め、その痛みの大きさを共に計り知れなさに戸惑いながらも、そこに居続けること。その「証人」としての存在は、実はとても大きな意味を持ちます。
加害者が否認し、社会が忘れようとする中で、あなたというもう一人の人間が「確かに、あなたにそんな理不尽なことが起きた」と心の中で真実の重さを抱え続ける。それは、世界の不公正に対する、ささやかですが決定的な対抗運動です。あなたが患者の苦しみを忘れないこと、そのことが「公正」の一片を、この世界に密かに打ち立てているのです。
3. 加害者の「安らかさ」の虚構性
「トラウマを与えた当人は、安らかに、あるいは大手を振って世界を生きている」。その光景は、見る者の正義感をズタズタにします。ただ、ここで一つの視点を差し出すとしたら、真に他者を踏みつけて生きる人間の内面には、ほとんど常に「自分の痛みを見ないようにするための必死の防衛」があります。 彼らはしばしば、罪悪感や空虚さを感じないよう、他者を貶め続けるという牢獄にいます。その人生が真の意味で「安らか」かどうかは、実は誰にもわかりません。
しかし、それでもなお、患者の回復は、加害者の変容や不幸を必要としません。 もし患者の癒しが加害者の苦しみを前提としてしまうなら、加害者が変わらない限り患者は永遠に囚われ続けることになります。そうではなく、「あの人がどうであれ、私は私の人生を生きる」という主体性の回復こそが、治療の目指すところです。それは、加害者を裁くことを手放すことではなく、加害者に自分の人生の舵を預けることをやめるということです。これは理不尽を許容することとは全く違います。むしろ、理不尽に奪われなかった「今ここからの生」を、自分の手で選び取っていくプロセスです。
4. 「救い」の再定義:悲しみとともにある生
あなたがおっしゃるように、宗教は様々な慰めを提供してきました。最後の審判、輪廻、天網恢恢。しかし、それでもなお苦しむ人がいるのは、そうした大きな物語が、個人の「今、ここ」の痛みを必ずしも癒やさないからです。
では、目の前の患者にとっての「救い」とは何か。それは、もしかすると、「それでもなお、生きるに値する何かを見つけること」かもしれません。たとえば、同じように苦しむ誰かにそっと手を差し伸べられるようになったり、美しい夕焼けを見て「今日も生きていてよかった」と一瞬でも思えたり、何より、かつては恥と孤独だった記憶を、誰か(あなた)に語り、受け止めてもらえたという経験そのもの。それは「解決」ではないけれど、絶望の淵に差し込む一筋の光です。
5. 治療者であるあなた自身の「無力さ」に座ること
最後に、これはあなたへの眼差しです。あなたは「どうにもできない」理不尽に、深く傷ついています。治療者が患者の苦しみを全部取り除くことはできません。その無力感に苛まれ、公正さを求める心が引き裂かれるのは、あなたが健全な倫理感覚を持った一人の人間だからです。
その無力さの中で、それでも患者の前に座り続けること。それは決して無駄ではありません。「あなたの苦しみには、何の意味もないかもしれない。それでも私は、あなたと共にここにいる」という沈黙のメッセージは、しばしばどんな技法よりも深く届くことがあります。これはもはや治療技術ではなく、人間の「存在」そのものの業(わざ)です。
そして、どうかあなた自身も、その重さを一人で抱え込まないでください。あなたのこの苦悩を分かち合える同僚や、スーパーバイザー、あるいはあなた自身の「よりどころ」となる物語や哲学が、あなたを支えることを願っています。
「なぜ理不尽があるのか」を完全に理解することは、おそらくできません。でも、理不尽を前に「これはおかしい」と叫ぶ心を持ち続ける人が、治療者という名の「人間」として、患者と共に世界の痛みのそばに留まることが、何よりも深い応答になると私は思います。
