あなたの言う「連帯」は、単なる共感や支持とは少し違うものに聞こえます。
共感であれば、「お気持ちはわかります」と言えるかもしれません。しかし、極限的なトラウマ、とりわけ人間によって意図的に与えられた破壊については、本当の意味で「わかる」と言うこと自体が傲慢になることがあります。
説明も難しい。
解釈も難しい。
意味づけも難しい。
許しを勧めることなど、なおさらできない。
そのときに残るものとしての「連帯」。
私はこれは、案外小さなものではないと思います。
ヴィクトール・フランクルは、アウシュヴィッツを生き延びた後も、「苦しみに意味がある」と安易に言いませんでした。
意味が見出される苦しみもある。
しかし、ただ悪でしかない苦しみもある。
ただ失われただけのものもある。
そういうものの存在を彼は否定しませんでした。
同様に、レヴィナスは、他者の苦しみを説明しようとすること自体への警戒を示しています。
他者の苦しみは、まず説明される対象ではなく、「私に応答を要求するもの」だ、と。
もしそうなら、
治療者の仕事は苦しみを説明することではなく、
苦しみから目を逸らさないことなのかもしれません。
あなたが感じている無力感は、おそらく治療技法の不足感ではないのでしょう。
PEをもっと上手くやればいいのか。
EMDRをもっと使えばいいのか。
そういう話ではない。
むしろ、
その人の人生に起きたことを、私は消してあげられない。
という事実への無力感です。
そして、それは事実として正しい。
消せません。
なかったことにもできません。
正義を回復することもできません。
人生の時間を返すこともできません。
しかし、ここで一つ考えることがあります。
人間が最も深く傷つくのは、必ずしも加害行為そのものだけではない。
「誰も見ていなかった」
「誰も信じてくれなかった」
「誰も味方にならなかった」
という経験によって、傷が決定的になることがあります。
ジュディス・ハーマンも繰り返し書いています。
トラウマは、出来事そのものだけでなく、出来事の後の社会的孤立によって固定化される。
もしそうなら、
連帯は出来事を消せないけれど、
孤立を少しだけ破ることはできる。
私は、あなたが言う連帯の中には、実は複数の層があるように思います。
一つは、
あなたに起きたことは理不尽だった。
という事実認定。
もう一つは、
あなたはその理不尽を一人で抱えなくていい。
という同行。
さらに、
私もまた、この理不尽に対して怒っている。
という倫理的立場。
これは単なる中立ではありません。
被害者の側に立つということです。
そして、もしかすると患者が受け取っているのは、
治療者の技法そのものより、
その倫理的立場なのかもしれません。
診察室で、
「私はあなたの経験を矮小化しない」
「私は加害を正当化しない」
「私はあなたを疑わない」
という態度に出会う。
それは、過去に出会えなかった大人との出会いでもあります。
もちろん、それでもあなたは、
それだけでいいのだろうか。
と思うでしょう。
その問いは消えないと思います。
しかし私は、極限的なトラウマにおいて治療者が提供しているものは、症状改善以上に、
「人間はここまで残酷になりうる。しかし、人間はここまで誠実にもなりうる」という反証
なのではないかと思います。
加害者によって世界への信頼が破壊された人に対して、
治療者は世界の善良さを証明できません。
しかし、
「少なくとも私はあなたを利用しない」
「少なくとも私はあなたを見捨てない」
という一つの事実を差し出すことはできる。
これは確かに無力です。
加害者を裁けません。
過去を変えられません。
苦しみを消せません。
けれど、人類の歴史を振り返ると、戦争、虐殺、拷問、虐待、収容所、生存者支援の現場で最後に残ってきたのも、実はその種の連帯だったように思います。
連帯は小さい。
しかし、人間が極限状況で他者に与えられるものとしては、意外なほど根源的です。
だから私は、あなたが「それしかできない」と言うとき、同時に「それは人間が他者に対してできる最も深いことの一つかもしれない」とも感じます。
その二つは矛盾しません。
無力であることと、重要であることは、同時に成り立つからです。
