山上憶良(660-733)
「(前 略) (『 万葉 集 』のな かの 例外 は、 再 び憶良 であ る) 。」90「しか し例 外は あっ た し、文 学と 思想 の歴 史 におい ては 、し ばし
ば例外 が重 要で ある 。 (中略 )ま た山 上憶 良 のよう に、 唐土 でシ
ナ語の 詩文 に熟 し、 儒 仏の思 想を 理解 して 、 帰国後 に、 日本 語の
抒情詩 の視 野を 拡大 し 、独特 の傑 作を 書く 天 才もあ らわ れた (憶
良は『 万葉 集』 を豊 か にした 。し かし 彼の 功 績は徳 川時 代に 到る
までほ とん ど全 く評 価 されな かっ た。 その こ と自身 が、 中国 文学
の影響 のも とで 創作 し た憶良 の立 場と 、同 時 代の土 着の 文学 の立
場とが 、ど れほ ど遠 く 隔って いた かと いう こ とを物 語る )。 外国
文化の 「挑 戦」 に応 じ て傑作 を生 んだ 少数 の 知識人 の文 学は 、憶
良以来 日本 文学 の歴 史 を一貫 して 、一 箇の 系 列をつ くる こと にな
るだろう。その時代のなかで孤立した傑作の系列。」 8C
大伴家持(665-731)
人麿の 挽歌 に見 られ る 死者の 来世 では なく 黄 泉行き のよ うな 性質
は少数 の例 外の 山上 憶 良と大 伴家 持の 作を 除 いて万 葉集 全体 に拡
張しているという。 8C
円仁(794‐864)
「円仁 はシ ナ語 で日 記 を書き なが ら、 外国 語 の文飾 に拘 らず 、冷
静に観 察し 、正 確に 記 録し、 みず から 言語 に 絶する 辛苦 をな め、
途方も なく 残忍 な出 来 事を見 聞し ても 、感 情 的な表 現を 用い ず、
常に徹底して即物的な叙述の態度を崩さなかった。」 93「(前 略)
『入 唐求 法 巡礼行 記』 の円 仁は 、 大陸の 思想 闘争 に全
く拘ら ず、 常に 覚め た 実際的 精神 にも とづ き 、観察 し、 描写 し、
いかな る状 況に もた じ ろがな かっ たと いう 意 味で、 第一 に、 見事
に 徹 底 し て 日 本 人 で あ り 、 第 二 に 、 稀 に 見 る 散 文 家 ( 『 今 昔 物
語』の 作者 から 西鶴 ま で)で あっ たと いわ な ければ なら ない 。」9C
空海(774‐835)
「空海 の哲 学思 想は 、 仏教の 「日 本化 」の 拒 否、そ の彼 岸性 の徹
底、土着世界観の克服という点で、画期的であった。」 9C
和泉式部
古 代 歌 謡 と 万 葉 集 の 情 熱 的 な 表 現 で は な く 「 ほ の ぼ の 」 し た 気
分 、 瑣 末 主 義 の 歌 が 多 い 中 で 、 「 し か し こ の 時 代 に も 例 外 は あ
る。」 96女流歌 人は 歌を 通し て 自己実 現し よう とし た 。「切 迫し た感 情と
正確で 無駄 のな い表 現 、詩人 の強 い個 性と 時 代を超 えて 人に 訴え
る女心の歌がある。」 10C
竹取物語の作者
「『竹 取物 語』 は特 殊 な例外 であ る。 おそ ら く九世 紀の 作と され
るが、 その 必要 にし て 十分な 叙述 、緊 密で 合 理的な 構成 は、 平安朝物語 のみ なら ず、 今 日に到 るま で日 本の 小 説のな かで 全く 群を
抜き、 ほと んど 日本 土 着の精 神と は異 質な も のを感 じさ せる 。」
お ち く ぼ 物 語 の作者
「殊に 終わ りの 部分 で 謳歌さ れる 夫婦 相互 の 献身に おい て、 理想
化は頂 点を 達し てい る 。夫婦 同居 、一 夫一 妻 制を志 向す る家 庭の
幸福の理想は、この時代の宮廷文学のなかでは例外である。」 10C
日蓮(1222‐1282)
・「天 皇も 将軍 も誤 っ ている 者は 誤っ てい る 」とい うよ うな 日蓮
の国家 権力 に対 する 「 その態 度こ そは 、日 本 史上極 めて 稀な 例外
であっ て、 彼は 、そ の いわゆ る「 法」 (『 法 華経』 )が あら ゆる
権威に 超越 する とし 、 したが って 、国 家が 法 に奉仕 すべ きで 、法
が国家に奉仕すべきではない、とした。」 100・「あ る意 味で 、日 蓮 は日本 の土 着世 界観 に 楔を打 ち込 んだ 。し
か し そ の た め に 土 着 思 想 の 全 体 が 変 わ っ た の で は 決 し て な か っ
た。」 13C
盤珪(1622-1693)
「盤珪 の場 合に 、日 本 語によ る仏 教問 答は 、 仏教思 想の 日常 化、
その彼 自身 の血 肉と 化 してい たこ とを 、意 味 するだ ろう 。し かる
に 仏 教 の 原 理 は 、 日 常 生 活 を 超 え 、 特 殊 な 歴 史 的 文 化 を 超 え る
(「不 生の 仏心 」の 普 遍性) 。「 日本 人に 似 合たや うに 」は 、こ
こでは 、日 本の 絶対 化 ではな く、 日本 と外 国 (具体 的に は中 国)
の差別 を超 えた 価値 へ の確信 につ なが るも の であっ た。 (中 略)
これは 、主 著を 日本 語 で書い た道 元が 、「 正 法」の 超越 的立 場か
ら日中 の禅 林を 批判 し ていた こと を、 想起 さ せる。 仏教 問答 に口
語を用 いた 盤珪 も、 「 不生の 仏心 」の 立場 か ら大陸 文化 の権 威に
屈する こと がな かっ た のであ る。 十三 世紀 の 道元と 十七 世紀 の盤
珪の、 言語 に対 する こ のよう な態 度と 、超 越 的価値 に対 する 確信
との間 には 、お そら く 密接な 関係 があ った 。 彼らは 日本 仏教 史上
の例外である。」 10217C
日奥(1565‐1630)
徳川時代の知識人の例外。「日本 の君 主は 、釈 迦 の世界 の一 小分 国を ひ きうけ てい るに すぎ
ない。」 103禁教弾圧によって「日奥の例外は、払拭された。」 10417C
山脇東洋(1705‐1762)
『解体 新書 』を 翻訳 し 、『蔵 志』 では 堯の 臓 器も傑 の臓 器も 同じ
ものであると宣言。「しかしこの宣言は、やや例外に属するだろう。」 10518C
小林一茶(1763-1827)
「十八 世紀 末十 九世 紀 初めの 文学 で、 農家 の 日常生 活に 触れ たも
の は 、 極 め て 稀 で あ る 。 俳 人 小 林 一 茶 ( 一 七 六 三 ~ 一 八 二 七 )
は、その意味で例外であった。」 10618-19C
福沢諭吉(1834-1901)
「福沢 は、 国家 に超 越 する価 値― 個人 の自 由 独立、 人と 国と の平
等 、 文 明 ― を 信 じ た 個 人 と し て 、 明 治 社 会 に お い て は 例 外 で あ
り、そ の超 越的 価値 と 現実主 義と を均 衡さ せ ようと した とい う点
でも、例外であった。」 10719C
森鴎外(1862-1922)
「明治 以降 の文 学は 、 その表 現形 式を 西洋 に 借りる か( 新体 詩、
新劇、 心理 小説 、文 芸 批評) 、日 本の 過去 に 採り( 和歌 と俳 句、
随筆、 ある 種の 小説 ) 、新し い形 式を みず か ら発明 する こと はな
かった。鴎外の伝記の形式は、唯一の例外である。」 10819-20C
内村鑑三(1861-1930)
・第一 高等 中学 校不 敬 事件が 「日 本の 近代 思 想史の 上で 重要 なの
は、敬 礼を ため らっ た 内村の 良心 にお いて 、 天皇神 格化 の否 定が
明瞭に あら われ てい た からで ある 。内 村の 唯 一神の 信仰 は、 国家
とその 象徴 とし ての 天 皇に、 絶対 に超 越す る 。彼は 烈し い愛 国者
であり 、日 本の 国家 に 超越し たそ の信 仰が 、 日本以 外の 地上 のあ
らゆる国家にも超越したことはいうまでもない。」 109・「共 同体 への 帰属 と 共同体 の外 にい かな る 絶対者 もみ とめ ない
価値観 とを 中心 とし て 築き上 げら れた 日本 的 世界観 の伝 統の なか
で、こ のよ うな 内村 の 信仰が 、例 外的 であ り 、かつ 画期 的で あっ
たことは、当然である。」 11019-20C
島崎藤村(1872-1943)
・「し かし 日本 のい わ ゆる「 自然 主義 」の 小 説家た ちに つい てい
えば、 彼ら がす べて 自 分自身 を主 人公 にし て 、実際 の経 験を 多か
れ少な かれ 忠実 に記 録 すると いう こと にだ け 専心し てい たの では
ない。 その 例外 の第 一 は、島 崎藤 村で あり 、 第二は 、正 宗白 鳥で
ある。」 111・自分 自身 の事 実か も しれな い近 親相 姦を 投 影した 小説 『破 戒』
を挙げ て、 「藤 村は そ の小説 家と して の最 初 と最後 の仕 事に おい
て、彼 自身 の内 部を 外 在化し 、歴 史の なか に もち出 そう とし たの
である。」 1121920C
正宗白鳥(1879-1962)
「「自 然主 義」 とは 、 当人た ちの 意に 反し て の伝統 主義 であ る。
その意 味で 白鳥 は例 外 ではな い。 白鳥 が例 外 であっ たの は、 その
伝統主 義を 意識 し、 徹 底し、 ほと んど 「シ ニ カル」 な立 場に まで
鍛え上 げた 点に ある 。 他のす べて の「 自然 主 義」小 説家 たち の場
合 に は 、 此 岸 的 日 常 的 な 土 着 世 界 観 が 意 識 さ れ ず に 一 貫 し て いた。こ れは いわ ば伝 統 即自で ある 。白 鳥の 場 合には 、そ れが 意識
化された。すなわち伝統対自である。」 113
有島武郎(1878-1923)
維新後 知識 人の 傾向 は 「一方 で、 徳川 時代 以 来の儒 学的 教養 のな
かに「 修身 斉家 平天 下 」の理 想が あっ たこ と 、他方 で、 彼ら の接
触した 、十 九世 紀の 西 洋の文 化が 強く 「ナ シ ョナリ ズム 」の 色彩
を帯び てい たこ とに よ って、 強め られ たに 違 いない 。し かし 同じ
世代のなかに例外がなかったのではない。」 114「例外 の第 一は 、い わ ゆる「 自然 主義 」の 小 説家た ちで ある 。」115「 例 外 の 第 二 は 、 有 島 武 郎 ( 一 八 七 八 ~ 一 九 二 三 ) と 永 井 荷 風
(一八七九~一九五九)である。」 1161920C
永井荷風(1879-1959)
有島武 郎の 心中 事件 に ついて 「何 らか の価 値 を強調 する ため に行
わ れ る 自 殺 は 、 そ の 価 値 が 政 治 的 で あ ろ う と 、 感 情 的 で あ ろ う
と、瑣 末的 な責 任に 係 ってい よう と、 この 国 では、 その 価値 の如
何にか かわ らず 、評 価 される こと が多 い。 自 己犠牲 はそ れ自 身が
価値で ある 。い わん や 歌舞伎 と浄 瑠璃 を通 じ て、情 死の 讃美 は大
衆の文 化の 一部 とな っ ていた 。例 外は 「猥 談 」(一 九二 四) を書
いた荷 風で ある 。彼 は 自殺の 行為 その もの よ りも、 その 前提 条件
を問題 とし 、「 姦婦 姦 夫」の 「密 通」 を糺 弾 した。 それ は批 判と
いうよりも、ほとんど憎悪に近い。」 1171920C
山川均(1880-1958)羽仁五郎(1901-1983)
マルク ス主 義的 な歴 史 記述は 、歴 史を 文学 か ら引き 離す よう に作
用した が、 「も ちろ ん 例外は ある が( たと え ば山川 均や 羽仁 五郎
の一部 )、 マル クス 主 義の歴 史家 の文 章の 味 のなさ は、 たと えば
マ ル ク ス 自 身 の 独 文 の 修 辞 の 自 在 さ と 、 鋭 く 対 照 的 で あ っ た ろ
う。」 1181920C
以上の表の通り、加藤周一は各時代において、ある種の基準である人物とその思想の性質を
判断し、知識人の「例外」を規定した。しかしその「例外」には矛盾を孕むため、加藤は無意
識に「例外」を使った可能性も否定できない。
例えば、自然主義の小説家の正宗白鳥に対する評価はその典型である。加藤は十九世紀末から二十世紀初めの日本の自然主義を強く批判する。ゾラの科学的世界観やドストエフスキーの
宗教的問題が含まれる十九世紀西洋の小説を、日本の自然主義の小説家たちは誤解したという。
日本の自然主義は「小説の世界は極度に狭く、作者身辺の瑣事に限られ」、その本質は「没理
想」の「反知性主義」であるという。加藤はこう指摘する。
彼らは日常生活のなかで自分がどう生きるかに苦労していたから、社会の全体を考える暇はなかった。 119
彼らは一九世紀の西洋の小説家を誤解したのではなく、そのなかに彼ら自身が必要としていたものだけを読みとったのである。 120
さらに日本の自然主義の小説家たちは自ら文学的伝統との断絶を強調した一方、本質的には
まさに意識もせずにそのような伝統の後継者となったと指摘する 121。「自然主義」の作家た
ちについて、加藤はこう説く。
たしかに「自然主義」の作家たちの側には、明治国家と自己を同定する意識はなかった。また社会全体の成りゆきについて、強い関心があったわけでもない。しかし彼らの
とり上げた主題が、身辺の瑣事のようにみえながら、実は同世代の社会的変化の要点の
一つであったこと、また彼ら自身はそれを意識していなかったとしても、その小説の世
界が遠く平安時代にまでさかのぼるところの日本の美学の(また殊にその時間と空間の
意識の)強い伝統を継承するものであったということは、後に詳しく説く通りである。122
