外来思想の受容の仕方に、日本的な特徴があるという説 加藤周一

私は少なくともある程度
までははっきりした形で、外国から文化あるいは思想が入ってくると、それが日本で変わ
る、日本化される、その日本化の方向に共通性があると思っています。内容は、思想が違
うからもちろん違います。仏教が日本に入ってきた場合と、丸山眞男が細かく分析した朱
子学が入ってきた場合と、それから明治の初期の西洋の思想、スペンサー、マルクス主義、
プロテスタンティズム、そういうものが入ってきたときに、日本でどう変わるかというの
は、それぞれの場合によって変わり方が違う。けれども、そこから変化の方向の共通性を
引き出すことができるだろうと私は思います。—加藤周一
—–

日本的思想としての特徴があるというよりも、
外来思想の受容の仕方に、日本的な特徴があるという。


思考内容と思考形式の区別と言っていいかもしれない。

しかし、どうだろうか。有効だろうか。

人間の理性に独自性があるものだろうか。

伝統は、影響するだろう。それは当然のことだ。しかし、それだけのことだ。
どんな場合も前提条件はある。
しかし、人間の理性に独自性はないだろう、普遍だと思う。


(1)明治期に、植民地化の危機に際して、どのように西洋化・軍事化・資本主義化を進めるかの課題があった。
その成功と失敗、そして(2)敗戦後の経済的復興と平和主義。(3)その後の停滞と反動。
その動きを考え、下部構造の分析をも含めて、上部構造の分析をする。


加藤周一、竹内好、丸山 眞男を並べ、比較して論考する。
西洋と東洋を比較する。日本の独自性を論考する。


福沢諭吉
日本人の思想を儒学の束縛から解放することこそ、文明開化を実現するための道だと唱えた
しかし、「人間社会に停滞の害毒を流したのは儒学の罪というべし」と、儒学と統治階級との癒着による学問の独占的な状況を糾弾した福沢諭吉自身も、儒学は激変期の日本社会にモラル的、教養的、価値観的養分を与え続けていたことを否定できないだろう。
明治維新までの日本の中核思想は、中国南宋の朱子などの思想を、仏教や道教に
触発されながら体系化した朱子学にあるとされている。これを中心に日本で独自の受容と進化
過程を歩んできた儒学及びそこから派生した諸思想は、明治維新を支え、またそれを成功に導
くための社会的精神的基盤を提供し、今日に至っても尚強靭な絆として機能し続けている。そ
の意味でいうと、江戸時代の発展を経て明治期を経験した日本の伝統となった日本儒学は、明
治以降大量に流れ込んだ西洋文化とともに、日本の近現代思想文化の形成や発展に重要な役割
を果たしている。
脱亜入欧

朱子学など儒学についての日本的需要について、丸山眞男の貢献が大きい。

現在では離米入亜論もある。


古い安定した世界モデルが、新しい世界モデルに出会ったとき、どのように自己修正するか、
その修正の仕方に独自性があるかないかの問題。

加藤周一はそれがあると言い、土着思想とか雑種文化とか言った。真意は、受容の方式が独自だと言いたかったらしい。

丸山眞男は古層と言い、通奏低音と言ったが、受容の方式とは言っていないような気がする。

しかし、私の立場では、世界モデルの修正にあたっては、誤差に対してどの程度の修正をするかの違いがあるだけだろう。誤差をなくする方向で修正するに違いないのであるから、その仕方に独自性があるとも思えないがどうだろうか。

特殊な受容方式があると言えばあるだろうが、ないと言えばない。


西洋文化の受容について、日本思想として論じることは、意味があるのだろうか。
個々人の受容があるだけで、個人と個人がどのように影響したかを論じればいいだけのようでもある。
全体は部分の総和ではない、全体は創発的な性質を帯びるとの考えがよく言われる。
還元論を否定する。
しかし、それは掛け声だけであって、実質が提示されることはないように思う。
曖昧な期待があるだけだろうと思う。

つまり、日本人の思想という総体が実質としてあるのかという問題である。
日本語を読み書き話し聞く範囲で、文化というものがあるし、そうなると世界モデルは想定される。
日本人の世界モデルは、各個人の世界モデルの総和であると言えるのか、言えないのか。
総和というのも、計算理論的な感じもするし、そうでないような感じもする。

それよりも、このまま人口減少が続けば、日本語の伝統が失われるだろう。古典文学などは誰も関心を持たないのではないだろうか。

聖書とシェイクスピアが共通資産となり共通伝統となるのだろう。


経済的にもテクノロジー的にも、植民地化されるのであって、文化も思想も、植民地化される。植民地化という言葉はきついので、グローバル化といった方がいいだろうが、大体の話は、茶髪にして、コカ・コーラとコーヒーを飲んで、英語の歌詞を歌っている現実がある。

その誰もが、強制されているとは感じていない。自ら進んでグローバル化している。

そこが文化統治の巧妙なところだ。「文化ヘゲモニー」。

自分たちを搾取する体制に自ら同意する。

アントニオ・グラムシは一つの逆説に直面していた
イタリアのファシスト刑務所で、アントニオ・グラムシは一つの逆説に直面していた。なぜ労働者たちは自分たちを搾取する体制に自ら同意するのか。 伝統的な権力論は「警察と軍隊が人々を従わせている」と答える。しかしグラムシは見抜いた。本当に強力な権力…

結局、この世界を生きる上で、何が役立つかという話なのだ。
外来思想は、物理学として、また人間の脳や生理学の普遍的な性質の部分では役に立つ。
しかし、人間が生きている現状の社会というものがあり、それは西欧社会ではないから、外来思想が役に立たない面がある。

長時間が経過すれば、必ず、世界モデルは、自然法則の方向に収れんすると思うので、西洋も東洋もないと思うが、途中経過としては、周囲の人間の反応が大切であり、その点でいえば、各文化は独自なのであって、独自の発信をこれまでしてこなかった地域文化は、雑種という話になるだろう。しかし現在では、アニメ、漫画、日本食、禅、その他、いろいろと発信しているわけで、雑種との判定も当たらないような気がする。

イギリスやフランスは独自文化であると自負するだろう。それについては文化人類学が世界の文化は多様であり独自であり、西洋の理性が唯一の心理ではないと力説しているが、そうだとして、人間は真実よりも、生きるにあたって役に立つものを採用するのであって、たぶん、西洋的理性が役に立ちそうだとの見通しで採用していると思う。採用しなければ、戦争で負けて、終わりだろう。それが嫌だから、明治政府は上からの文明開化を推進した。下はそれに従った。それはあからさまな強制であったけれども、人々はそれを素直に受容した。従順であった。利益に敏感であった。利益に誘導された。人間としてまことに素直である。

自分たちを搾取する体制に自ら同意するという点は、文章で書けば、アホであるが、現実の人間はそのようなものだと思う。
目先の利益に反応するし、メンツにこだわるし、性的なものに弱い。搾取する側は知り尽くしている。人々を強制しているのではない。人々の本来求めているものを与えているだけである。犬を訓練するのと同じである。別段暴力を使う必要などない。欲しがるものを与えるだけでよいのである。うまく誘導できる。人々は満足する。犬は特に反抗しないで、餌を食べて、安全安楽に暮らしているいる。

搾取する側としても、たいして高級なわけでもないし、たいして幸せなわけでもない。つまらない利益にこだわって、現状維持しているだけの存在だ。そして残念なことに搾取される人々と同じく病気にもなるしすぐに死ぬ。その点では平等である。ただ生まれた立場が違うだけである。

漢字は採用した、律令制度は取り入れた、仏教も採用した、しかし、儒教は江戸時代だし、科挙も採用しなかった。取捨選択はあったわけで、中国文化の完全コピーではなかった。遣唐使などの直接の影響もあったが、朝鮮半島からの影響も大きかっただろうと思う。それは単純に地理的な原因である。

採用と不採用があって、さらに、仮名やカタカナ、短歌などの独自性も加え、その結果として日本文化となる。

採用と不採用に独自の態度があったかと言えばそうでもないのではないか。偶然もあった。派閥対立になって、原理的な敗北ではなく、当時の派閥力学で採用されたとか不採用になったとか、あったのだろう。それは個別に下部構造からも歴史的偶然からも検証されることなのではないか。

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