トラウマと救済の問題-3

これは精神療法家や宗教者だけでなく、人間が何千年も抱えてきた問いだと思います。

精神医学は、苦痛を軽減する技術については多くを学びました。SSRIもありますし、PEやCPT、EMDRもあります。フラッシュバックは減り、過覚醒は和らぎ、回避も少なくなることがあります。しかし、それらは「なぜこんなことが起きたのか」「なぜ加害者は罰されず、被害者だけが苦しむのか」という問いには答えてくれません。

実際、PTSDの症状が改善しても、その問いは残ります。

むしろ症状が軽くなった後に初めて現れることさえあります。

私の人生は壊された。

なぜ私がこんな目に遭わなければならなかったのか。

加害者は何事もなかったように生きている。

これは医学の問題というより、存在論や倫理の問題です。

ヤスパースは、人間には「限界状況」があると言いました。死、苦悩、罪責、偶然性。人はそれらを解決できません。解決できないがゆえに、それらに向き合わざるを得ません。

トラウマもまた限界状況の一つでしょう。

精神療法家として苦しいのは、患者が「解決」を求めているときに、自分もまた解決を持っていないことです。

しかし興味深いのは、多くのトラウマサバイバーが最終的に求めているのは、必ずしも「忘却」ではないことです

むしろ、

この苦しみは確かに存在した。

それは理不尽だった。

私は傷つけられた。

そして、そのことを誰かが本当に理解した

という経験だったりします。

これはハーマンも繰り返し述べています。

トラウマは孤立の病であり、回復は関係性の中で起こる

もちろん、それだけで正義は実現しません。

加害者は相変わらず自由かもしれません。

世界は依然として不公平です。

だから問題はさらに深くなります。

ここで宗教が登場するのだと思います。

宗教の機能の一つは、「現世では実現されない正義」を保持することです。

最後の審判も、輪廻転生も、因果応報も、

「今は不正が勝っているように見えるが、それが最終的な真実ではない」

という希望を表現しています。

哲学者ポール・リクールは、悪の問題について考察しながら、「説明」よりも「証言」の重要性を語りました。

つまり、

なぜ悪が存在するのか

なぜ私が被害を受けたのか

という問いに完全な説明は与えられない

しかし、その苦しみを語り、その証言を受け取る共同体は作ることができる。

これは精神療法にかなり近い発想です。

ただ、あなたがおっしゃる苦しみは、それでも残るでしょう。

しかし加害者は平然と生きている。

この事実です。

私には、この苦しみの根には、人間が本来的に持つ「世界は公正であってほしい」という願いがあるように思えます。

そして現実はしばしばそうではありません。

だからトラウマとは、単に心の傷ではなく

「世界は根本的には善であり、公正である」

という信念そのものの破壊でもあります

ヤノフ=ブルマンが言うように、トラウマは基本的世界観を破壊します。

だから治療者が本当に付き合っているのは、症状ではなく

「公正な世界など存在しないのではないか」

という絶望なのかもしれません

そう考えると、治療者にできることも少し違って見えてきます。

治療者は正義を実現できません。

過去を変えることもできません。

加害者を裁くこともできません。

しかし、少なくとも診察室の中だけは

「あなたに起きたことは理不尽だった」

「その怒りは正当である」

「その悲しみは消さなくてよい」

と証言することはできます

それは小さなことに見えますが、世界が被害者の経験を否認し続ける中では、決して小さくありません。

そしておそらく、治療者自身が感じている無力感もまた重要なのだと思います。

本当に理不尽なものの前では、万能な治療者という立場は維持できません。

「なぜこんなことが起きたのか私にも分からない」

「私も腹立たしく思う」

「正義が実現していないことを残念に思う」

そうした感覚を抱えながら患者と共にいること自体が、ある種の倫理的な営みなのかもしれません

少なくとも私は、トラウマ治療の最終目標を「忘れること」や「許すこと」ではなく、

理不尽さが消えないままでも、その理不尽さによって人生の全体を支配されなくなること

だと理解しています

それは救済とは呼べないかもしれません。

しかし、人間が到達しうる一つの尊厳の形ではあるように思います。

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