治療者として目の前の理不尽に直面し、その途方もない重さに深く苦悩されているお姿に、敬意を表します。この「世界の不条理」と「治療の限界」に対する問いは、トラウマ治療に携わる多くの人々が歴史的に、そして現在も突きつけられ続けている最も根本的で、かつ解決の難しいテーマであると思います。
この果てしない問いに対して、絶対的な正解を提示することはできませんが、トラウマ臨床や精神医学、そして哲学の領域において、先人たちがどのようにこの理不尽さと向き合おうとしてきたか、いくつかの視点を共有させていただければと思います。
1. 「忘却(治療)」から「物語への統合(回復)」へ
おっしゃる通り、トラウマとなった記憶を脳から完全に消去することは現代の医学・心理学でも不可能です。そのため、現代のトラウマケア(例えば、ジュディス・ハーマンらの知見など)においては、回復の定義を「忘れること」ではなく、「その出来事を、自分の人生の歴史の一部として位置づける(統合する)こと」に置くことが一般的です。
トラウマの渦中にいるとき、その記憶は「過去」のものではなく、フラッシュバックなどを通じて「今まさに起きている脅威」として存在し、当事者の生活を支配してしまいます。
治療の目指すところは、その圧倒的な支配力を少しずつ弱め、当事者が「あれは過去の、理不尽で、あまりにも痛ましい出来事だった。しかし、私の人生のすべてではない」と思えるようになることです。消し去ることはできずとも、「本棚の奥にしまわれた、時々手に取って痛むことはあっても、普段の生活を乗っ取ることはない一冊の重い本」のようにしていくプロセスが、現実的な回復の姿とされることがあります。
2. 「公正世界仮説」の崩壊と、新たな世界の再構築
人は無意識のうちに「世界は公正であり、善い行いには報いがあり、悪人には罰が下る」という信念(公正世界仮説 / Assumptive World)を持って生きています。トラウマは、この前提を根底から粉々に破壊します。加害者がのうのうと生きている現実は、その崩壊した世界をまざまざと見せつけます。
この理不尽な現実を前にして、宗教的な救済や綺麗事が無力、あるいは欺瞞に感じられるのは、それが崩壊した「公正な世界」を無理に取り繕うとするように見えるからかもしれません。
心理学者ロニー・ヤノフ=ブルマンは、トラウマからの回復とは、壊れた元の世界(=綺麗で安全な世界)に戻ることではなく、「世界は時に不条理で、悪意に満ちた部分もある」という厳しい現実を受け入れつつ、それでもなお「自分自身の尊厳と、身近な範囲での安全性・信頼関係を再構築していく」プロセスであると述べています。
3. 「証人(Witness)」としての治療者の存在
治療者として「何かをしてあげる」ことの限界を感じるとき、私たちは無力感に苛まれます。しかし、トラウマを抱えた人にとって、「自分の身に起きた理不尽な苦痛を、歪めず、過小評価せず、そのまま認め、一緒に憤り、悲しんでくれる他者がいる」ということ自体が、決定的な救いになることがあります。
加害の本質は「被害者の現実を否定し、声を奪い、なかったことにすること」です。
治療者が、その圧倒的な理不尽さの「証人」として隣に立ち続けること。その苦痛を魔法のように消し去ることはできなくとも、「ともにその痛みに耐え、共感的に見守る(Being with)」存在であることは、孤立無援の世界に一人で取り残されていた患者にとって、社会や他者とつながり直すための細い、しかし確かな命綱になり得ます。
4. 「よく生きる」という静かな抵抗
加害者に罰が下らないことは、正義の感覚に著しく反します。しかし、被害者が自らの人生を取り戻し、ささやかであっても安心や喜び、自分自身のコントロール感を感じられるようになること自体が、実は最も強力な「抵抗」であるとも言えます。
「あいつのせいで私の人生はすべて台無しになった」という支配された状態から、「あの出来事は許せないし、決して忘れない。けれど、私は私の人生を私のために、少しでも心地よく生きていく」という主体性を取り戻すこと。これこそが、理不尽な世界に対する、静かで尊い勝利なのかもしれません。
このような果てしない不条理と日々向き合う治療者自身もまた、気づかないうちに「二次的外傷性ストレス(共感疲労)」にさらされ、無力感やバーンアウトの危機に直面することがあります。
あなた自身が感じているその「理不尽さへの怒り」や「根本的な悩み」は、あなたが患者の痛みにそれだけ誠実に向き合っている証でもあります。どうかその誠実さが、あなた自身をすり減らしてしまわないよう、同僚への相談やスーパービジョンなど、あなた自身の心を支え、安全に吐き出せる場も大切にしていただければと願っております。
