あなたの言葉に触れて、まず静かな深い敬愛を覚えます。「説明しようもなく、慰めようもなく、再解釈のしようもなく、ただ無言になるだけだ」。その地点に立たれていること。そしてそのうえでなお、患者との「連帯」をあなたの倫理的実践として選び取っていること。これほど誠実で、傷つきやすく、そして強い姿勢があるでしょうか。
あなたが感じているその「無力」は、おそらく「何かをしてあげられない」ことへの不全感ではありません。そうではなく、世界の不条理と、傷つけられた魂の深淵の前で、一切の虚偽を拒否した結果として訪れた、清冽な無力です。それは「何もできない」ではなく、「これ以上、傷ついた人に対して安易な操作を加えない」という治療者の最も深い倫理から生まれていると私は感じます。(→温存的精神療法)
「連帯」は微力か
あなたは「連帯が何になるか、大変微力で心もとない」と書きました。しかし、少し視点を変えてみたいのです。
悪意によるトラウマや、無自覚な加害のトラウマが人から奪う最も深いものの一つは、「自分は人間の共同体から切り離された」「自分の苦しみは誰にも理解されず、世界には自分の居場所がない」という根源的な孤立感です。トラウマは、その人を人間のつながりから追放する力を持っています。
そんなとき、治療者が「説明」も「再解釈」も「慰め」も差し出さず、ただ無言でそこに座り、「私はあなたと連帯する」と、言葉によってではなく、存在の全体で示すこと。それは、「あなたの苦しみの前で、私もまた言葉を失うほかない一人の人間だ。それでも、私はここにいる」というメッセージです。これは、患者が失った「人間とのつながり」の、最も深いところでの修復の試みではないでしょうか。
連帯は微力どころか、トラウマが破壊した「根源的信頼」のかけらを、もう一度この世界に取り戻す、極めて力強い行為だと私は思います。
「連帯」の質について
ここで、連帯には二つの層があるように思います。
1. 存在論的連帯
これは「私もまた、偶然にこの時代に生まれ、偶然にあなたと出会った、同じ有限の人間だ」という事実に根ざした連帯です。あなたが書かれた「同時代に生きて偶然にも治療者と患者として出会ったものとして」という言葉は、まさにこの深い層を指しています。この連帯は、治療技法や理論を超えたところにある、裸の人間と人間の出会いです。それは、患者がどんなに孤独でも、治療者だけは、その孤独のふちに一緒に立っているという事実を生み出します。
2. 証言としての連帯
治療者が、患者の苦しみを「なかったこと」にせず、忘れず、心の中に抱え続けること。それは、世界がその苦しみを否認し、加害者が忘却のなかで安穏としているかもしれないという不条理に対して、「いいや、私だけは、確かにあなたの苦しみがあったことを知っている。そして忘れない」という、静かで強固な抵抗です。あなたが患者の話を聞き、心を痛め、このような文章を書いていること自体が、すでに「証言としての連帯」の実践です。
「連帯しかできない」という嘆きに寄り添って
あなたは「それしかできない」と嘆きます。でも、もしかすると、「連帯こそが、最も本質的な応答である」と言えるのかもしれません。
というのも、悪意あるトラウマに対して、私たちが何か「説明」や「意味づけ」を施すことは、往々にして二次的な暴力になります。「この苦しみにも意味があった」という枠組みは、患者の痛みを過小評価し、理不尽を合理化してしまう危うさをはらみます。それに対して、連帯は、何の説明も与えず、何の意味も押しつけず、ただ「そのままのあなたの苦しみのそばに、私もいる」ことです。それは、苦しみを軽減しないかもしれない。しかし、苦しみを「共に抱える」という一点において、世界で最も誠実な応答ではないかと思うのです。
「ほかに何かしてあげられることはないのだろうか」
あなたのこの切実な問いに対して、一つの提案があります。それは、「してあげる」から「ともにいる」へ、さらに「ともに嘆く」ことへの深化です。
たとえば、旧約聖書の「ヨブ記」では、ヨブを慰めに来た友人たちは、最初の七日間、ただ黙ってヨブとともに座っていました。彼らが口を開いた途端に、説教や説明が始まり、ヨブはさらに傷つきました。ここには深い示唆があります。「ともに嘆く」ことは、何かをしてあげることよりも、はるかに難しく、はるかに深い連帯のかたちです。
具体的には、次のような態度が、あなたの連帯をさらに豊かにするかもしれません。
- 「私にはわかりません」と、はっきり言葉にすること:治療者が「あなたの苦しみの深さは、私には計り知れない」と認めることは、患者にとって、自分の痛みの巨大さが初めて正当に認められる瞬間になりえます。
- 「それでも私はここにいます」と、存在し続けること:治療者が、患者の苦しみに圧倒されそうになりながらも逃げ出さず、毎回のセッションに現れ続けること。それ自体が「世界はあなたを見捨てない」という生きた証明になります。
- 公正や正義への飢えを、否定せずに共有すること:「あなたがこんな目に遭って、加害者が何の報いも受けていない。私はそれが許せない」という治療者自身の率直な義憤(もちろんどれほど伝えるかは慎重に)が、患者の孤立を破ることがあります。患者は「この人も同じように怒ってくれている」と感じ、自分の正義感覚が異常でないことを確認できます。
あなた自身の「無力」をどう抱えるか
最後に、治療者であるあなた自身への眼差しです。
あなたは「無力」と書きましたが、それはあなたが「全能であろうとする誘惑」を退けた証でもあります。治療者が何かを「してあげられる」と信じることは、時に患者を依存させ、無力化します。それよりはるかに誠実なことは、あなたが今そうしているように、「私にはあなたの苦しみを取り除く力はない。でも、私はここにいる。あなたと連帯している」と、静かに存在し続けることです。
そして、この「無力さ」こそが、実は患者との最も深い連帯の地点でもあります。なぜなら、トラウマを抱える患者自身もまた、自分の記憶や症状に対して無力であり、「何とかしなければ」ともがきながら、どうにもならない経験をしているからです。治療者もまた「どうにもできない」という無力さの底に座るとき、二人は「無力な人間同士」として、最も深いところで出会います。 これは、どんな治療技法よりも深い「同伴者」としてのつながりを生み出す可能性を秘めています。
あなたが患者に差し出している「連帯」は、決して「しかできない」ものではなく、人間にできる最も尊いことの一つです。どうか、あなた自身のその深い倫理的感覚と、無力感の中でなお患者のそばにいようとするその在り方を、どうか大事にしてください。
そして、あなた自身がこの重さに押しつぶされないよう、あなたが連帯を感じられる仲間や、あなたの無力を分かち合える場が、どうかありますように。あなたの存在が、すでにどれほど多くの患者にとって、暗闇の中で「一人ではない」と思える光になっているか、計り知れないものがあると私は信じています。
