治療者の感じ方を消すのか消さないのか

他の精神科医さんとかカウンセラーさんとかとケースについて話し合う機会があります。
人によって感じ方はずいぶんと違う部分もあると思うわけです。

診断名とかについては、DSMがあるから、だいたいは問題もなく決まるわけです。合意形成は楽です。しかし、DSM診断が決まっても、症状の成り立ちについての仮説(フォーミュレーション)とか、その患者さんを取り巻く様々なレベルの環境とか、過去のあれこれとか、現在の人間関係とか、職場とか学校とか、成育歴とか、直接病気の原因ではないとしても、治療のなかでいろいろと配慮する必要のあることは多いわけです。

今回の悩みの原因と言うか結果と言うか、微妙な場合もある。

もちろん、精神病も、身体病と同じように、診断医に、同じだけの情報が与えられたら、同じ診断が下されて、それを元にして、合理的な治療計画が始まるのがよいでしょうし、それを目指してやっているわけです。

その場合には、治療者の個人的な経験とか考え方は背景に退く。前景にあるのは、DSM時診断と、各国学会が作った治療マニュアルですね。それで妥当なんです。身体科ではどこでもそうしています。精神科でも、そのようにしています。

しかしそれで精神科的・心療内科的疾患が診断されて治療が上手くいくかと言えば、そうではないと思う。
DSMにも治療マニュアルにも出てこない、さまざま要素が複雑に関係していて、どの要素がどの程度の重みがあるのかなど、治療者間で感じ方に違いが現れたりする。

原因とまでは認定できないが、性格傾向とか、習慣とか、生まれ育った家の価値観とか、また学んだ学校の方針とか、そういったものが、大きくも小さくも影響している。夫婦で、双方の実家のかかわりがどのようであるかなどは、症状にも治療にもかなり影響する場合もある。
夫婦が違った場所で生きて仕事をしていれば、価値判断も違ってくる。
子どもの教育方針についても、違いを調整する必要がある場合もある。

そのような価値観の相違とかは、DSMで想定するような疾患の原因とは異なっている。
病気が原因で、価値観の相違が大きくなり、調整が必要と言うなら、診断、治療と言う手順で問題ない。

しかし、傷ついていることは確かだけれど、そしてその傷をいやすためには、お互いの成育歴とか性格傾向とか、最近で言えば、愛着パターンの問題とか、いろいろ理解する必要があることもある。

そのような利用域は、医学的診断治療とはすこし別のものだろう。
そうしたことは、治療者個人の体験や価値観も多少は反映されることになる。

例えて言えば、一人の治療者の内部に、二人存在するようなものだ。
一人は、素朴な生活者としての自分で、自分の直接の経験から、色々な価値観も組み立てて持っているし、かなり意識的にコントロールしたとしても、結局、そのような価値観からは離れられない部分がある。
もう一人は、職業的な人格で、自分の経験は背景に引っ込めて、患者さんの生活する範囲での人間たちの、価値観や人間観、世界観の平均的な部分を採用するようにする。

例えば、整形外科で骨折の治療をするなら、上のような生活者人格と職業的人格を考える必要もないのだろう。まあ、当然、無意識のうちに使い分けて入るだろう。しかし、精神科・心療内科の場合には、一層、意識的に、使い分ける必要があるように思う。

そして、自分は個人的な感じ方からは、こう考える、と言う部分はとても大切なのだと追う。ひっこめていればよい医者というものではないと思う。

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