夭逝短命

養生して長生きしましょうというが、
では夭逝短命は不幸なのかと言えば、
そうとも言えない。

遺伝子は絶えず変化をつつけており、
正規分布の左側も約半数発生するのが道理である。

それを不幸と呼ぶのは正しくない。
その遺伝子なりの天寿を全うしているのであって、
悲しむこともよいが、厳粛な気持ちになって送るのがよい。

様々に変化する遺伝子を作り出し、
この世界の状況に適合する遺伝子を選び出し、
次の世代に伝えること。
それが遺伝子のあり方である。
存在意義である。
そしてそれ以上でもそれ以下でもない。

遺伝子それ自体に価値の上下があるのでもない、
ただ環境との適合性において、
生き残るかどうかが決まるだけである。
生き残ったものが、現在の環境に適合したものであったと、
後になって知ることができるだけである。

ただそれだけのことである。
そこに生きることの意味だとか、どう生きるかとか、
考えてしまうのは、
脳主義の悪弊である。
生きる意味を作り出すとか語っているのは、脳主義の発露である。

DNA主義が基本であって、脳主義はその手助けをしているに過ぎない。
時に、脳主義が行き過ぎて、DNA主義に反することもあるが、
時間がたてば、またDNA主義の原則は貫徹されている。

事故や急性の感染症などで命を落とすこともある。
痛ましいことだ。
それについても、厳粛な気持ちで、見送るのがよい。

長命の人において、あらゆる辛苦を嘗め尽くす人生もある。
それもまたつらいことである。

幼くして親を失い、長じては子を亡くし、戦いを命じられ、天災を生き延び、
病に苦しみ、人に裏切られ、人を裏切り、嫉妬し、嫉妬され、嘘をつき、嘘をつかれ、
それでも生きているのが、長生きというものである。
夭逝短命の悲しみと選ぶところはない。

自分の行き過ぎた欲望を制御して、心安らかに長命を願うのがよいと言われる。
欲望を満たすことで、命を縮めたり、他人に迷惑をかける人の多いことは遺憾ではあるが、
そのような生き方もあるのであって、
そのような選択も理由のあることだろう。
好き嫌いがあるだけである。存在を抹消すべきだとも思わない。
そのような遺伝子も、人類の遺伝子プールの中に存在するのが、よい戦略だったのだろう。

そのような遺伝子が現に一定量存在しているということは、
今現在の世界がそのようにできているということを意味している。
それはそれでよくも悪くもない。
そのような生き残り方もあったということだ。

思うのだが、例えば、オリンピックで金メダルを取りたくて、様々に苦労するなど、
つまらないことだと思う。
様々な遺伝子の中で、気がついたら随分走るのが早いなあと、自分でも気がつき、周囲も驚く、
そんな遺伝子が、オリンピックの場で、披露されればよいのであって、
自分で金メダルの目標を立てて、自ら苦しみ、周囲にも迷惑を強いて、ギリギリのところで、
なんとか道をつけてゆくとしたら、
そのような努力も悪いことでもないだろうが、美しいものとも思えない。

偶然発生した貴重な遺伝子をみんなで驚いて祝福すればよいのであって、
稽古はうそをつかないなどと言っているのは、あまり見たいものではない。

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