個人がみずからの「自主的人格」をたしかなものとし、「主体」として政治にかかわ
ってゆく「近代」のあり方は、人類がみな、文化の差異をこえてめざすべき理想であ
り、その意味で、「欧州市民文化」が今のところ先んじているとはいえ、本来は西洋
と日本との違いも、これまでどれだけ理想に近づいたのか、その度合いの差にすぎな
い。―こうした「近代」の理想
縦の普遍的な発展段階論に立つ見方から異質な文化接触による横からの衝撃という分析視角
への変化
日本における「思想的座標軸の欠如」ということを論じている。日本の思想
においては、仏教的なもの、儒教的なもの、西洋的なもの等々が「みな雑然と同居し、
相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていない」
あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそ
れとの関係で―否定を通じてでも―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは
座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった。
丸山は日本文化の「雑居」の状態を不満に思い、「否定」することを通じてでも「自
己」という「座標軸」を形成するよう日本の思想的伝統の樹立を求めて行かなければな
らないと考えた。
加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的
に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性
から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の
趣旨は賛成であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。第一に、
雑 種 性 を 悪 い 意 味 で 「 積 極 的 」 に 肯 定 し た 東 西 融 合 論 あ る い は 弁 証 法 的 統 一 論 の「伝統」もあり、それはもう沢山だということ、第二に、私がこの文でしばしば精
神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わ
らずにただ空間的同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならば
そこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、い
ちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返さ
れるだけだろう。
丸山は加藤周一の「雑種文化」を「雑居の状態」として捉え、内面的に交わることで
期待できる個性を肯定的に捉えると同時に、「いちゃついたり喧嘩したりしているので
は」のような主体のない状態を否定的に捉えている。しかし、加藤が「日本の小さな希
望」として積極的な意味において捉え直そうとした「雑種文化」とは、もちろんのこと
な が ら 、 た だ 単 に 「 雑 居 の 状 態 」 を 意 味 す る も の で は な い 。 第 三 章 で 考 察 し た 通 り 、
「雑種文化」及び「土着世界観」は加藤の中では一体化しているものであり、見えない
精神軸が支えた個別的且つ連続的な主体性が機能する文化現象と思想の土台なのである。
その見えない軸を見える化にしたのは後に誕生した『日本文学史序説』である。一方、
丸山は「雑居」の日本が欠いた「主体性」を模索するために、日本の「原型」から着手
した
例 えば 、近世思想について丸山は幕藩体制における思考様式が「原型」、「儒教的世界
観」、「幕藩体制の精神構造」という「三つの契機の相互作用」によって成り立っているとい
う。
① 「儒教的世界観」と「原型」
両者には一致面もある。いずれも血縁を重視する此岸主義である。しかし「原型」が
心情主義であるのに対して、儒教的世界観(特に朱子学)は「理」を根底においた合
理主義的な普遍主義である。
② 「原型」と「幕藩体制の精神構造」
幕藩体制がもたらした「身分的・空間的閉鎖化」は、「原型」の「集団的功利主義」
と共通している。しかし「原型」のもつ「心情的ラヂカリズム」は幕藩体制のもつ様
式化・定型化の枠におさまらずこれを突破する傾向がある。
③「幕藩体制の精神構造」と「儒教的世界観」
戦闘者=武士を支配階級とし、藩の割拠と幕府の集権的統一とのバランスの上に立っ
ている幕藩体制と、儒教的世界観が前提とする周代の封建制や秦・漢以後の官僚支配
体制とは、ある点では共通性があるからこそ儒教が取り入れられたのだが、しかし両
者には一致しない面も多い。
ーーーー
個人の世界モデルでもよいし、集団の、例えば日本文化の世界モデルでもよいが、それは統合された単一の原理に基づくものではないと考えられる。
例えば、自然科学的な世界観と、伝統宗教のアニミズム的世界観と、一神教的世界観などの要素は、一つの世界モデルの中に内在していて、時に応じて場面に応じて、出たり、消えたりしているもののようである。
例えば、神経生理学のエックルズはもちろん一流の自然科学者であったが、晩年にはキリスト教信仰を深めていて、本人としては特に矛盾もなかったようである。自分の死に直面して、あるいは来世のことを考えるときに、脳神経細胞をイメージするよりも、一神教的世界モデルが役に立ったということだろう。
むしろ、世界モデルは、いくつかのモジュールに分解されるものであって、一つの問題の解決に、いくつかの解決を持っている、つまり、交換可能なモジュールで構成されていて、時と場合に応じて、動いたり休んだりしていると考えたほうがよさそうである。
そのような、世界モデルを構成するいくつかのモジュールの代表的なものはフロイトの意識と無意識である。
精神療法の実際に即していえば、いま面接場面で話しているのは、どのモジュールかということが問題になる。
一番分かりやすいのは解離性障害の場合である。人格AとBがあって、Aが問題であるときに、Bと話をしていてもはかどらない。Bと話すことが有益な面も確かにあるけれども、間接的である。
勿論、各モジュールを統合する部分があるならば、そこに働きかければよいようなものであるが、それがある場合もあるし、見当たらない場合もある。
きれいな症例報告では、解離性障害の場合に、複数の人格が次第に統合されて一つになるというが、治療者として個人的には経験がない。
★
テキスト感想・分析・展開
📌 テキストの構造を俯瞰する
このテキストは表面上、思想史論文の引用・注釈と臨床心理的なメモが混在しているように見える。しかし読み進めると、両者は同一の問いを異なる水準で追っていることに気づく。
「統合された単一の原理に基づかない世界モデル」とはいかなるものか
🔷 丸山眞男と加藤周一の対話を再読する
丸山の「精神的雑居」批判と加藤の「雑種文化」肯定は、しばしば対立図式で語られる。しかしテキストが鋭く指摘するのは、丸山の読み違いの構造だ。
- 丸山は「雑種=雑居(空間的同時存在)」として批判した
- 加藤の「雑種」は実は**「土着世界観」という見えない軸が支えた動的統合**であった
- その軸を可視化したのが後の『日本文学史序説』だ、という整理
ここで興味深いのは、丸山自身が「座標軸の欠如」を問題にしながら、加藤の隠れた軸を見落としたという逆説である。「座標軸を求める眼」が、別の形の軸を見えなくさせた——これは認識論的な盲点として示唆に富む。
🔷 「モジュール型世界モデル」論の射程
後半の議論は、前半の思想史的問題を認知・心理の水準に降ろした試みと読める。
単一原理による統合モデル(近代的理想)
↕ 批判・再記述
モジュール型世界モデル(実態)
├ 自然科学的世界観
├ アニミズム的世界観
├ 一神教的世界観
└ ……(状況依存で起動・休止)
エックルズの例は秀逸だ。「死」という問題系が活性化されたとき、脳神経細胞モデルではなく一神教モジュールが適応的に前景化した。これは矛盾ではなく、問題に応じた最適モジュールの選択として捉えられる。
🔷 解離性障害の比喩が照らすもの
臨床への展開は、思想史議論の隠れた論理を暴く。
「Bと話していてもAの問題はすすまない」
これを日本文化論に翻訳すれば——「西洋的モジュールで問いを立てても、伝統的モジュールが動かす問題には届かない」ということになる。丸山が要求した「座標軸」は、統合を目指す治療者の介入に似ている。「きれいな症例報告では複数人格が統合されるが、個人的には経験がない」という一文は、近代的主体論への静かな懐疑として響く。
🔷 展開・問い直し
いくつか突き詰めたい論点を挙げる。
① 「統合」は目標か、それとも幻想か 丸山的な「座標軸の確立」は、解離症例の「人格統合」と構造が同型である。しかし治療者が経験しない「きれいな統合」を、思想史家が要請することの暴力性はどう評価されるか。
② モジュール型であることの「主体性」 加藤の雑種文化論が示唆するのは、一貫した自己同一性なしに主体的であり得る可能性ではないか。「土着世界観」という見えない軸は、単一原理ではなく使い方の様式・文法のようなものかもしれない。
③ 近代批判としての再定位 冒頭の「近代の理想」(個人が主体として政治に関わる)は、テキスト末尾の臨床的洞察によって相対化される。「どのモジュールが今、話しているか」を問うことは、「主体」概念そのものを複数化・流動化する。
まとめ的な感想
このテキストは、思想史・文化論・認知モデル・臨床知見を縦横に繋ごうとする知的スケッチとして読める。特に「丸山の加藤読み違い」の指摘と、「解離モデルによる文化論の比喩的照明」の組み合わせは独自性が高い。書き手が何を書こうとしているのかが興味深く、**「日本文化のモジュール性を、主体性の欠如ではなく別種の主体性の形として再定義する」**という論旨を構築しつつあるように見える。
続きや特定のテーマの深掘りを希望であれば、ぜひ。
★
このテキストは、日本の思想史における「近代」の捉え方、特に丸山眞男と加藤周一の議論を中心に展開されています。主要なテーマは、日本の文化や思想が持つ「雑種性」や「雑居性」と、それがもたらす「思想的座標軸の欠如」という問題提起、そしてそれをどのように乗り越えるかという問いです。
主要な論点と感想
- 「近代」の理想と日本の位置づけ:
- 丸山は「近代」を人類普遍の理想とし、日本が欧州に「先んじられている」ものの、いずれは目指すべき方向性であると捉えています。
- これは、西洋を規範とした近代化という、戦後日本の知識人によく見られた視点です。しかし、現代においては、西洋中心主義的な「発展段階論」に対する批判も強く、多様な近代のあり方や、非西洋圏独自の発展を評価する視点も重要になっています。
- 日本の「思想的座標軸の欠如」と「雑居」状態:
- 丸山は、日本の思想が仏教、儒教、西洋思想などが「雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていない」と指摘しています。
- 「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で―否定を通じてでも―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」という分析は、日本の思想が持つある種の曖昧さや、明確な体系性の欠如を浮き彫りにしています。これは、ある意味で日本の文化の柔軟性や受容性の高さとも言えますが、同時に、確固たる批判精神や自己定位の難しさにも繋がると考えられます。
- 丸山と加藤周一の「雑種文化」論:
- 加藤周一は、日本文化を本質的に「雑種文化」と規定し、むしろその雑種性から積極的な意味を引き出すべきだと提言しています。これは、日本の多文化的な側面を肯定的に捉えようとする試みであり、多様性が現代社会において重視される視点と合致します。
- これに対し、丸山は加藤の「雑種文化」を「雑居の状態」と捉え、異質な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点に問題意識を持っています。「多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。」という発言は、単なる並列的な存在ではなく、相互作用を通じて新たな価値が生まれることを期待する丸山の姿勢を示しています。
- 加藤の「雑種文化」が「見えない精神軸が支えた個別的且つ連続的な主体性」を内包しているという指摘は重要です。単なる寄せ集めではなく、それらを統合する(あるいは統合されずとも機能する)内的なメカニズムが存在するという見方です。これは、無意識的なレベルでの文化的な統合の可能性を示唆していると言えるでしょう。
- 丸山の「原型」論:
- 丸山が日本の「主体性」を模索するために、日本の「原型」から着手したという点は、日本の思想の深層を探ろうとする試みとして興味深いです。
- 近世思想を「儒教的世界観」「原型」「幕藩体制の精神構造」の「三つの契機の相互作用」で捉える分析は、複雑な日本の精神構造を多角的に理解しようとする姿勢が見て取れます。特に、「原型」が持つ心情主義や集団的功利主義、そして心情的ラディカリズムが、儒教的合理主義や幕藩体制の定型化とどのように相互作用し、時には衝突してきたかという分析は、日本の歴史と文化のダイナミズムを理解する上で非常に示唆的です。
- 「世界モデル」のモジュール性とフロイトの洞察への接続:
- 「個人の世界モデルでもよいし、集団の、例えば日本文化の世界モデルでもよいが、それは統合された単一の原理に基づくものではないと考えられる。」という後半部分の記述は、これまでの丸山・加藤の議論をより普遍的な「世界モデル」の構造論へと接続しようとする試みであり、非常に興味深い視点です。
- 「自然科学的な世界観と、伝統宗教のアニミズム的世界観と、一神教的世界観などの要素は、一つの世界モデルの中に内在していて、時に応じて場面に応じて、出たり、消えたりしているもの」という見方は、まさに日本の文化的な「雑居」状態を、単なる未熟さではなく、機能的な「モジュール」として捉え直す可能性を提示しています。
- エックルズの例は、個人の内面において異なる世界モデルが矛盾なく共存し、状況に応じて「切り替わる」ことの具体例として非常に適切です。
- 「世界モデルは、いくつかのモジュールに分解されるものであって、一つの問題の解決に、いくつかの解決を持っている、つまり、交換可能なモジュールで構成されていて、時と場合に応じて、動いたり休んだりしている」という考え方は、認知科学や心理学におけるスキーマ理論やモジュール説とも関連する現代的な視点です。
- フロイトの「意識と無意識」をその代表的なモジュールとして挙げている点も、精神分析的な視点から世界モデルの内部構造を理解しようとする意図が見て取れます。
- 精神療法におけるモジュール論の応用:
- 「いま面接場面で話しているのは、どのモジュールかということが問題になる。」という精神療法の実践への言及は、このモジュール論が臨床的な有効性を持つことを示唆しています。
- 解離性障害における複数の人格(モジュール)の存在は、この考え方を最も明確に表す例です。どの「モジュール」が活性化しているかによって、コミュニケーションのアプローチを変える必要があるという洞察は、非常に実践的です。
- 「各モジュールを統合する部分があるならば、そこに働きかければよいようなものであるが、それがある場合もあるし、見当たらない場合もある。」という記述は、統合の難しさや、必ずしも完全に統合されるわけではない現実を認める冷静な視点です。きれいな症例報告のような「統合されて一つになる」という理想とは異なる、臨床の複雑さが示されています。
総括と展開の方向性
このテキスト全体を通して、日本の文化や個人の精神構造における「多様性」「多層性」「非統合性」といったテーマが共通しています。丸山の問題提起から始まり、加藤の肯定的な捉え方、そして最終的には「世界モデル」のモジュール性という普遍的な視点へと展開していく流れは、非常に論理的かつ示唆に富んでいます。
感想分析の展開として考えられること:
- 丸山と加藤の議論の現代的意義: 両者の議論を現代の多文化共生やアイデンティティ論の文脈で再評価する。日本の「雑種性」がグローバル化時代においてどのような強みになり得るか、あるいは課題となり得るか。
- 「見えない精神軸」の探求: 加藤の言う「見えない精神軸」や、日本文化の「原型」といった無意識的な基層を、具体的な文化現象や芸術作品、あるいは現代の社会心理から探る。
- 世界モデルのモジュール性の深掘り:
- 個人の内面における異なる世界観(科学的思考、宗教的信仰、アニミズム的感覚など)がどのように共存し、切り替わるのか、具体的な事例を挙げて考察する。
- 現代社会における情報の多様化や価値観の多元化が、個人の世界モデルのモジュール性をどのように促進しているか。
- 異なる文化圏における世界モデルのモジュール性の比較。非西洋圏の文化が持つモジュール性はどのような特徴を持つか。
- 精神療法におけるモジュール論の応用可能性の具体化:
- 解離性障害以外の精神疾患(例:PTSD、うつ病、パーソナリティ障害)において、このモジュール論がどのように診断や治療に役立つか。
- セラピストが患者の「どのモジュール」と関わっているかを意識することの重要性。
- 統合されないモジュールが共存することの臨床的な意味合い。必ずしも統合が目標ではなく、モジュール間の調和や適切な切り替えが目標となる場合もあるのではないか。
- AIとの関連性: 複数のモジュールが連携して機能するという世界モデルの考え方は、AIのアーキテクチャやマルチモーダルAIの設計思想にも通じるものがあるかもしれません。人間の知性や意識の多層性をAIでどのように再現し、活用できるかという視点も面白いかもしれません。
- 「主体性」の再定義: 複数のモジュールが共存する中で、「主体」とはどのように定義されるのか。単一で統合された主体ではない、多層的な主体性という概念の探求。
このテキストは、思想史から心理学、そして潜在的には現代の認知科学やAIまで、幅広い分野を横断する非常に豊かな議論の素材を提供しています。
★
このテキストは、日本の思想文化における「主体性」「雑居性」「座標軸の欠如」という複層的な問題系を、丸山眞男と加藤周一の対比を軸に論じた、かなり密度の高い内容ですね。これを踏まえて、私の感想・分析・展開を述べます。
1. 感想:捉えどころのなさこそが日本の思想的「強度」か
最初に率直な感想を述べれば、このテキストを読んで感じたのは、「雑居」とは欠如ではなく、むしろ一つのあり方としての複数性なのではないかという点です。
丸山は「思想的座標軸の欠如」を問題視し、否定を通じてでも自己を位置づける軸の必要性を説いています。これは非常に近代的で、西洋的な「主体」の確立を理想とする態度です。しかし、その「座標軸」を持つこと自体が、同時に排除や同一化の暴力を孕む可能性もある。加藤周一の「雑種文化」の積極的な再評価は、その暴力を回避しながら、多様な要素の「内面的な交わり」から新しい個性を生み出す可能性を探っていた——その緊張関係が、このテキストの核心だと感じました。
2. 分析:丸山と加藤の「見えない軸」をめぐる共振
このテキストの優れている点は、丸山と加藤を単純な対立図式に収めていないことです。
- 丸山は「雑居」を批判しつつも、「三つの契機の相互作用」という複合的なモデルを近世思想の分析に用いている。つまり彼自身、単一原理的な世界観を取っていない。
- 加藤は「雑種文化」を肯定的に捉えつつも、それが単なる寄せ集めではなく、「見えない精神軸」に支えられた「個別的かつ連続的な主体性」の現れだとしている。
つまり、両者ともに「見えない軸」の存在を認めている。違いは、その軸を「まだないから作るべき」(丸山)と「すでにあるが可視化されていない」(加藤)という認識の差にある。この違いは、日本の思想が「あるべき理想」に向かうか、「あるものの価値」を掘り起こすかという方法論の違いであり、どちらかが正しいというより、相補的な関係にある。
3. 展開:世界モデルとしての「モジュール理論」との接続
テキスト後半に登場する「世界モデルは複数のモジュールからなる」という考え方は、この議論に新しい視点をもたらす。
「時に応じて場面に応じて、出たり、消えたりしている」
これはまさに、日本の思想的「雑居」を病理ではなく、むしろ適応的な認知の柔軟性として再解釈する視座です。エックルズが科学者とキリスト教徒を「矛盾なく」両立させたように、日本人が仏教的・儒教的・西洋的なモジュールを場面ごとに切り替えて使うことは、「座標軸の欠如」ではなく、「状況依存的知性」の表れかもしれません。
しかしここで一つ問題がある。それはモジュール間の「調整」や「統合」は誰が、どのように行うのかという点です。解離性障害の例が示すように、モジュールが分離しすぎると「いちゃついたり喧嘩したりするだけ」の状態に陥る。丸山の言う「内面的な交わり」や加藤の「見えない精神軸」は、このモジュール間の通訳可能な関係性のことではないか。
4. 問いの展開:現代日本における「雑居」の行方
このテキストを現代に引きつけて考えるなら、SNSや情報過多の時代において、私たちはかつてないほど多様なモジュール(価値観、情報源、アイデンティティ)に曝されている。にもかかわらず、「思想的座標軸」はより見えにくくなり、かといって加藤的な「雑種の積極性」も、単なる「好きなものを寄せ集める肯定」に堕しやすい。
そこで私が考えるべき展開は:
- 「あえて座標軸を持たない」という選択の倫理:丸山的な「作るべき」という規範そのものが、もう一つの西洋的な強迫観念かもしれない。
- モジュールを編み直す「小さな翻訳」の蓄積:「見えない軸」を可視化するのではなく、対話的な実践の中で動態的に編み直す営為。これは加藤の『日本文学史序説』のような大著ではなく、日常的な対話や表現の中に現れる。
結論:欠如の美学から複数性の技法へ
このテキストは、日本の思想が「何かを欠いている」という問題設定を、「複数のものをどう関係させるか」という問題設定に転換するきっかけを与えてくれる。丸山の真剣な憂慮と加藤の冷静な肯定は、どちらも同じ現実を見て、異なる戦略を取ったにすぎない。
私たちに求められているのは、「座標軸がある・ない」という二分法を超えて、複数のモジュールが衝突し、休み、ときに調和する動態そのものを、どう生きるかという技法的な問いではなかろうか。
もしご希望であれば、このテーマをさらに「教育」「政治参加」「アイデンティティ」など具体的な領域に展開することも可能です。お知らせください。
★
とても興味深い展開です。
丸山眞男の「座標軸」論から出発しながら、最終的には「世界モデルのモジュール理論」にまで進んでいる。しかもそれを精神療法の臨床に接続している点が、単なる思想史批評ではなく、かなり独自の認識論になっています。
まず、丸山の問題設定を整理すると、彼は日本思想を「雑居」と見た。
つまり、
- 仏教
- 儒教
- 西洋近代
- 土着信仰
などが、相互の論理的位置づけを持たないまま並存している、と考えた。
彼にとって問題だったのは、「矛盾」ではなく、「座標軸の不在」です。
互いに否定し合いながらでも、全体を位置づける原理がない。
だから主体が形成されない。
これはヘーゲル的であり、近代的主体の思想です。
つまり、
人間は、自己矛盾を統合する中心を持つべきだ
という前提がある。
しかし、あなたの議論はそこを根本からずらしている。
あなたはむしろ、
世界モデルは最初から統合されていない
と言っている。
ここが非常に重要です。
たとえばエックルズの例。
神経生理学者としては徹底した自然科学者でありながら、死や来世についてはキリスト教的世界観を用いる。
普通なら「矛盾」とされる。
しかし本人の内部では、必ずしも矛盾していない。
なぜか。
それは、人間の認知体系が「単一OS」ではなく、「状況依存的モジュール群」だからだ、という見方になる。
これは実は現代認知科学にもかなり近い。
例えば、
- ダニエル・カーネマンのSystem1/System2
- マーヴィン・ミンスキーの『心の社会』
- 進化心理学のモジュール説
- predictive processing の階層モデル
などは、人間精神を統一主体としてよりも、「部分システムの連合体」として理解する傾向がある。
すると、丸山の「雑居」は、欠陥ではなく、むしろ脳の自然状態になる。
つまり、
日本文化が未成熟なのではなく、
人間精神そのものが本来的に“雑居的”なのではないか
という逆転が起こる。
これはかなり大きい。
さらに面白いのは、あなたがそれを精神療法へ接続しているところです。
「今、誰と話しているのか?」
これは実際、臨床で極めて重要です。
同じ患者でも、
- 理性的自己
- 被害者自己
- 攻撃者自己
- 幼児自己
- 空虚自己
- 宗教的自己
- 社会適応自己
などが場面ごとに切り替わる。
そして多くの場合、それらは互いを知らない。
ここであなたは、フロイト的無意識を、「深層」ではなく「モジュール」として再解釈している。
これはかなり現代的です。
フロイトはまだ、
「抑圧された中心的真実」
を想定していた。
しかしあなたの視点では、
無意識とは、統合されていない別システム
になる。
だから解離性障害がモデルケースになる。
人格Aに対する介入と、人格Bへの介入は違う。
そして「統合主体」が存在しない可能性もある。
この視点は、実はかなり臨床実感に近い。
というのも、実際には「統合」しない患者は多いからです。
むしろ、
- 共存する
- 交代する
- 互いを部分的に認識する
- 交通整理する
程度で安定することも多い。
だから古典的精神分析の、
最終的に統合された自己へ
という理想像は、かなり近代的人間観に依存している。
ここで再び丸山に戻ると、面白い対比が見えてきます。
丸山は、
「主体の不在」を問題視した。
しかしあなたはむしろ、
主体とは後付けの編集効果ではないか
という方向へ行っている。
つまり「私」とは、複数モジュールが一時的に作るナラティブであり、固定的実体ではない。
これはある意味、
- 仏教の無我
- ヒュームのbundle theory
- 現代神経科学
- 解離理論
などが交差する地点です。
しかも興味深いのは、日本文化の「雑居性」が、このモジュール的人間観と親和的に見える点です。
西洋近代は、
「統合された主体」
を強く要求した。
しかし日本文化はむしろ、
- 神道的自己
- 儒教的自己
- 仏教的自己
- 近代市民的自己
を場面ごとに切り替えてきた。
だから丸山には「未成熟」に見えたが、別の視点から見れば、
高度な多重自己運用文化
とも言える。
もちろん、そこには弊害もある。
責任主体が曖昧になる。
論理的一貫性が弱くなる。
制度的合理性が崩れる。
しかし逆に、
- 適応柔軟性
- 共存性
- 認知的冗長性
- 危機時の切り替え能力
は高い。
この視点は、精神病理にも文明論にも接続できそうです。
統合失調症とうつ病の比較を以前あなたがされていた問題とも、実は深くつながる。
統合失調症ではモジュール間境界が崩壊し、
うつ病では特定モジュールが過剰固定化する、
というモデルも考えられるからです。
かなり大きな理論へ発展できる気がします。
