本書は「わかりあえなさ」を、悲観ではなく出発点として捉え直す。わかりあえないからこそ生きていけるのだと。マルクス・ガブリエルの核心にある主張は強烈だ。ガブリエルは従来の哲学における他者の捉え方は誤りだったと言い切る。それまでの少なからぬ哲学は、まず確固たる「自分」があって、その自分が外部の「他者」とどう関わるかを問うてきた。自己が出発点で、他者は後からやってくる、という順序だ。ガブリエルはこの順序をひっくり返す。他者がいなければ、そもそも自分という存在は成り立たない、と(もちろん、このような哲学を説いた人もまあまあいるけれど)。
どういうことか。ぼくなりに噛みくだいてみる。ぼくらは、自分が何者かを自分一人で決めているわけではない。他者と関わり、他者から見られ、他者によって反応され、そのなかで「ぼくはこういう人間だ」という像を形づくっていく。他者という鏡がなければ、自分の輪郭は浮かび上がらない。だから他者は、自分の外にいる邪魔者ではなく自分が自分であるための条件だと言える。実際、有名な心理学の実験でも、「あなたは優秀だ」と見られ続けた子どもが、当初の学力に関係なく優秀な人物になっていくことが示されている。自己は、そのように「自分でもコントロールできない」。ガブリエルが「他者がいなければ私たちは存在することさえできない」と語るのは、この意味においてである。
この見方から、本書は鋭い現代批判を引き出す。たとえばアイデンティティの問題だ。ガブリエルによれば、アイデンティティは人間の出発点ではない。ところが現代社会、とりわけソーシャルメディアはアイデンティティをぼくらに押しつけてくる。あなたは何者か、どの属性に属するのか、と。本書の指摘で印象的なのは、こうしたメディアが承認欲求を刺激し、人々を固定したアイデンティティの檻に閉じ込めるという見立てだ。本当は流動的で、他者との関わりのなかで変わり続けるはずの自分が一つのラベルに固定されてしまう。本人も、積極的に固定されにいく。SNSで持て囃されるキャラに当てはまろうとする。
ここで、ガブリエルの提示するもう一つの鍵が効いてくる。それは「訂正可能性」とでも呼ぶべき発想だ。ぼくらは他者によって訂正され、変わることができる。逆に、訂正を受けつけず、自分の正しさに閉じこもった瞬間、人は他者を失い、同時に自分自身をも痩せ細らせる。わかりあえなさとは、この訂正の余地のことだ。完全にわかりあえてしまったら訂正の余地はない。わかりあえないからこそ、ぼくらは互いに変わり合える。他者との「わかりあえなさ」を大切にできなければ、その人はずっと、固定化したアイデンティティの檻の中で暮らすことになるかもしれない。
本書は、分断という現代の病にも踏み込む。多様性が尊重されるべきだと叫ばれる一方で、社会はかつてないほど分断している。この矛盾をどう見るか。ガブリエルは、分断の克服には相手の違いを認めたうえで、その違いをいったん「許して忘れる」余地が必要だと語る。とりわけ日本的な同調圧力については、皆が互いに戦いを仕掛けてくるような極端さだと手厳しい。同調を強いる圧力は表面的には一体感を装いながら、実は他者の他者性を圧殺している。
ガブリエルの「新しい実在論」は、世界は人間の認識から独立して実在するという立場を取りつつ、同時に、意味や価値もまた実在すると主張する点に特徴がある。本書の他者論は、この実在論と地続きである。他者は、ぼくの認識が作り出した像ではなく、ぼくから独立して実在する。だからこそ、ぼくの思い通りにならず、ぼくを訂正しうる。わかりあえなさは他者が本当に実在することの証なのだ。
考えてみれば、「わかりあえない」を嘆くとき、ぼくらは心のどこかで「完全にわかりあえる」状態を理想としている。だがガブリエルは、その理想こそが危ういと示唆する。完全な相互理解とは、他者が他者でなくなること、つまり他者の消滅にほかならない。わかりあえなさを消そうとする欲望は、突き詰めれば、他者を自分に同化させたいという欲望と紙一重だ。相手への期待は、常にそのとば口を作ってしまう。
