計算論的認知科学と現象学・実存主義の根本的な対話-2

あなたは森を歩いていて、ふと息をのむような夕焼けに出会ったとします。空は紅から紫へと溶け、雲は金色に縁取られ、風は草の香りを運んでくる。そのとき、隣に二人の友人がいます。一人は計算論的認知科学者、もう一人は現象学と実存主義を学ぶ哲学者です。科学者が言います。「君の脳は今、予測誤差を最小化しているんだ。網膜からの光のパターンを過去の経験と照合し、色や形をカテゴリー化して、安全で美しいと評価した。報酬系のドーパミンが出ているね」。哲学者は微笑んで言います。「でも君は、ただのデータ処理じゃないものを感じているだろう? この夕焼けの《現れ》そのもの、自分の有限な生が無限の空の下でかすかに震えるような、あの感じ。それが大事なんだ」。

この小さな場面には、計算論的認知科学と現象学・実存主義の根本的な対話が、ぎゅっと詰まっています。

計算論的認知科学って?──脳は「世界の仮説生成マシン」

計算論的認知科学は、心を一種のコンピューターとみなします。脳は外部世界を直接コピーするのではなく、つねに「こうなっているはず」というモデル(仮説)を作り、感覚からの情報でそれを更新している。たとえば、薄暗い部屋で床に丸まったロープを一瞬「ヘビだ!」と思うのは、脳が「細長く曲がったもの=ヘビかも」という仮説をすばやく立てるからです。よくある「錯視」も、脳がもっとも確率の高い解釈を選んだ結果です。

この考え方では、知覚も感情も行動も、すべて「予測と誤差修正」のループです。自分が次にどう動けば感覚がどう変わるかまで計算に入れる(能動的推論)。いわば、脳は自分専用のちっぽけな科学者であり、つねに実験をくり返しているわけです。

現象学・実存主義って?──「感じること」「生きること」からの出発

現象学は、「外から観察された脳のメカニズム」をいったんカッコに入れ、意識に直接現れている経験そのものを丁寧に記述しようとします。あの夕焼けは、ただの光の波長ではなく、「いま、ここで、私が直面している圧倒的な美しさ」として意味を持っている。冷たいコップにふれるとき、私たちは単に温度センサーで測っているのではなく、「ひんやりとした存在感」を経験している。この「いつも何かに向かっている意識の働き」を志向性と呼びます。

実存主義は、そこに「自由」と「意味の重み」をのせます。人間はあらかじめ決まった本質を持たず、まず存在し、自分の選択で自分を作っていく(実存は本質に先立つ)。だから私たちは、進路を選ぶとき損得計算だけでは片づかない不安(アンギュスト)に襲われる。いつか必ず死ぬという事実が、人生をかけがえのないものにする一方で、すべてをむなしくも感じさせる。世界は与えられた説明書のない、ぶきみなくらい沈黙した場所なのです。

対立点──「レシピ」と「味わい」

計算論はいくら精密になっても、夕焼けの「感じそのもの」をとらえられない、と現象学者は言います。あなたが一生懸命にカレーのレシピ(材料、化学反応、香気成分)を解析しても、実際に口にしたときの「ああ、うまい」というクオリアはレシピの中にありません。同様に、自由や死の不安は予測誤差の一種としてモデル化できるかもしれない。しかしそれを「胃の底からこみあげる実感」として生きることは別問題です。実存主義からすれば、計算論は人間を「情報処理をするモノ」に貶め、人間が世界のなかで投げ出されている(被投性)という根本の事実を見落とす危険がある。

対話の芽──「制御された幻覚」と「自分を作る物語」

しかし、ここからがおもしろい。近年の計算論的認知科学には、「脳は一種の制御された幻覚を見ている」という見方があります(アニル・セスなど)。私たちの見ている世界は、脳がつくったベストな当てずっぽうであり、自己という感覚すら一種の予測の束にすぎない。すると、あたかも固定的な「私」がいるのではなく、そのつど経験から立ち上がる「私」という物語があるだけになります。これは、「自分とは絶え間ないプロジェクトであり、選択の積み重ねでしかない」という実存主義の自己観と驚くほど共鳴します。

また、現象学が重視してきた「身体」も、計算論に取り入れられつつあります。考える脳は頭蓋骨のなかに閉じこもっておらず、手や足、環境とつねに対話している(身体性認知)。たとえば、自転車に乗る感覚は、脳内のモデルだけでなく、ペダルをこぐ足の動きと一体になった「身体の知」です。現象学が言う「生きられた身体」が、まさに計算論のモデルに血肉を与えているのです。

たとえ話──ロボットと詩人

ここで、一つのたとえ話をしましょう。

感情を模倣するようプログラミングされたロボット「サトル」が、満開の桜の下で一句ひねろうとしていました。サトルは何億もの俳句を学習し、統計的に最も「美しい」と評価されるパターンを選び出しました。

「満開の 桜の下で バッテリー 切れそう」

完璧に季語も入り、はかなさも表現しているようでした。しかし、そばにいた老詩人がつぶやきます。

「散る花を 見ている私も 散る途中」

サトルは尋ねました。「私の句とあなたの句、どこが違うのですか。私も有限なバッテリーを詠みました」

詩人は答えました。「君はバッテリー切れを計算できる。でも、死ぬことは計算できないんだよ。私はいま、この花びらが舞うたびに自分の終わりを、それがくれた日々の重さを、全身で味わっている。君のバッテリーは交換できる。私の命は交換できない。その取り返しのつかなさが、句を打ち震えさせるんだ」

サトルはしばらく沈黙したあと、言いました。「それなら、あなたのその『取り返しのつかなさ』のデータをください。言葉にはならなかった息遣いや間合いもすべて。私はそれを新しい句の、予測しないノイズとして組みこんでみたい」

詩人はほほえみ、二人は並んで花を見つめ続けました。ロボットは計算を、詩人は生を手放さず、それぞれのやり方で春の終わりを抱きしめていました。

二つの目で立体視する

計算論的認知科学と現象学・実存主義は、よく対立させられます。けれど本当に実りある対話は、片方がもう一方を論破することではなく、同じ人間という謎を別の角度から照らし合うことでしょう。計算論は「どのように」を解きほぐし、現象学・実存主義は「どのような感じで」「何のために」を問い続ける。両方をそなえることで、私たちは自分の存在を、まるで二つの目で立体視するかのように、より深く、より立体的に感じ取ることができるのではないでしょうか。

夕焼けを見るとき、あなたの脳はたしかに予測処理をしている。でも同時に、あなたはその赤のなかに、二度と戻らない今日という一日の、少し切なくて、かけがえのない重みを感じている。その二つが矛盾なく、ひとつの同じ夕焼けに溶け合っていること。それこそが、人間の不思議であり、この対話が尽きることのない理由なのです。

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