カトリックと宗教的多元主義
序論:最も困難な問いの一つ
「あなたが信じる神だけが本物の神で、他の宗教の神は偽物か」——この問いは、宗教的多元主義の核心にある。
カトリック神学にとって、これは最も緊張に満ちた問いの一つだ。
一方には唯一性の確信がある。「イエス・キリストは唯一の救い主だ」「教会はキリストの体だ」「神の完全な啓示はキリストにおいて与えられた」——これらはカトリック信仰の核心命題だ。
他方には普遍的愛の確信がある。「神はすべての人間の救いを望む」「神の愛に限界はない」「聖霊は自由に吹く」——これもカトリック信仰の核心命題だ。
この二つの確信は緊張する。
「唯一の救い主」という主張は、「他の宗教では救われない」という結論を導くように見える。しかし「神はすべての人の救いを望む」という主張は、「神の働きは特定の宗教の境界を超える」という方向を示す。
この緊張をどう生きるか——それがカトリックと宗教的多元主義の問いの核心だ。
第一部 宗教的多元主義とは何か——立場の整理
三つの古典的立場
神学者イアン・バーバーとアラン・レースが整理した枠組みが、この議論の地図として機能する。
排他主義(Exclusivism)
「救いはキリストを通じてのみ可能だ。他の宗教には救いの道はない。」
最も厳格な形では——「洗礼を受けたキリスト者のみが救われる」。より緩やかな形では——「キリストの救いが唯一だが、教会の外でもキリストへの暗黙の応答がありうる」。
包括主義(Inclusivism)
「救いはキリストを通じてのみ可能だが、キリストを明示的に知らなくても救われる可能性がある。他の宗教には真理の断片があり、神の恩寵が働いている。」
カール・ラーナーの「匿名のキリスト者」が代表的。第二バチカン公会議の立場に近い。
多元主義(Pluralism)
「キリスト教は多くの救いの道の一つに過ぎない。神(あるいは究極的実在)への道は複数あり、どの道も等しく有効だ。」
ジョン・ヒックが代表的提唱者。「神中心主義(theocentrism)」——キリスト教中心主義から神中心主義への「コペルニクス的転回」を提唱。
現代の第四の立場——「比較神学」
近年、これらの古典的類型を超えた第四のアプローチが浮上している。
比較神学(Comparative Theology)——フランシス・クロニー(イエズス会)らが発展させた。
他の宗教を「外側から評価する」のではなく、**「内側から深く学ぶ」**ことで、自分の信仰をより深く理解する——これが比較神学の核心だ。
「ヒンドゥー教から何を学べるか」「仏教の実践から何を受け取れるか」——これは「どの宗教が正しいか」という競争的問いではなく、「互いの深みから学ぶ」という受容的問いだ。
第二部 カトリックの歴史的立場の変遷
「教会の外に救いなし(Extra Ecclesiam Nulla Salus)」——原典と変遷
この命題の歴史は複雑だ。
キプリアヌス(3世紀)——「教会を母として持たない者は、神を父として持てない(Habere non potest Deum patrem qui Ecclesiam non habet matrem)」。これは当時の分裂(スキスマ)への文脈——教会から離れた集団への警告として発せられた。
ボニファキウス8世の勅書「ウナム・サンクタム(1302年)」——「ローマ教皇への服従はすべての人間にとって救いのために絶対に必要だ」——これは最も厳格な排他主義的解釈の極点だ。しかしこれは神学的定義というより政治的文脈(フランス王フィリップ4世との対立)を持つ文書だ。
フィレンツェ公会議(1442年)——「教会の外にいる者、つまり異教徒・ユダヤ人・分離派・異端者は永遠の命に与れない」——これが最も明示的な「排他主義的」定義だ。
しかしこの解釈は、その後の神学的発展によって大きく変容した。
「洗礼の願望(Baptismus Flaminis)」——内部からの修正
中世から、厳格な排他主義への内部からの修正が進んでいた。
「洗礼の願望(Baptismus Flaminis)」——「洗礼を受けたいという欲求を持つが、実際には受けられなかった場合」の救いの可能性。
これはキリスト教圏で洗礼前に死んだ者や、「善意の異教徒(invincible ignorance:克服不可能な無知)」——真理を知る機会を持たなかった人々——の救いへの道を開いた。
「克服不可能な無知(Invincible Ignorance)」——17世紀のフランス神学者たちが発展させ、ピウス9世(1854年)が公式に認めた概念。「キリスト教を知る機会なしに死んだ人々は、自分の罪ではない。神は彼らを意志と良心に従って判断する。」
これは画期的だった——「洗礼を受けていないすべての人は断罪される」という厳格解釈から、**「無知によってキリスト教を知らなかった人々には救いの可能性がある」**という開放へ。
第二バチカン公会議——最大の転換点
**「非キリスト教諸宗教に関する宣言(Nostra Aetate、1965年)」**は、カトリックの宗教間対話の基礎文書だ。
核心的な言葉——
「カトリック教会は、これらの宗教に見られる真・善なるものをなんら拒否しない。これらの宗教の生き方と行動様式、その戒律と教義を、真摯な尊重をもって考察する。これらのものは、すべての人々を照らす真理の光を反映していることが少なくない。」
これは革命的だった。
「他の宗教には真理がない」から「他の宗教には真・善なるものがある」へ。 「他の宗教との対立」から「尊重・対話・協力」へ。 「ユダヤ人は神殺し」から「ユダヤ人への偏見の否定」へ。
同時に、**「キリストにおける充溢」という核心は保持された。**他の宗教に真理の断片があることと、キリストにおける完全な啓示という主張は、矛盾しない——包括主義的枠組みで。
**「教会憲章(Lumen Gentium)」**も重要だ——「神の民」の概念を、可視的教会を超えて拡張。様々な形で神を誠実に求める人々が「神の民」に関与する可能性を開いた。
第三部 ラーナーの「匿名のキリスト者」——最も影響力ある神学的試み
命題の内容
カール・ラーナーの「匿名のキリスト者(Anonymous Christian)」論は、20世紀カトリック神学における宗教的多元主義への最も体系的な応答だ。
論理はこうだ——
①すべての人間は「超自然的実存態(übernatürliches Existential)」を持つ——神の恩寵のオファーの中に、すでに置かれている。
②この恩寵のオファーへの「誠実な応答」は、キリストについて明示的に知らなくても起きうる。
③しかしこの恩寵はキリストの恩寵だ——すべての救いはキリストに基づく。
④したがって、キリストを明示的に知らずとも、誠実に神に向かって生きる人間は「匿名の形でキリストの恩寵に与っている」——「匿名のキリスト者」だ。
これは「包括主義」の最も精緻な神学的表現だ。
強みと限界
強み——
「神は普遍的救いを望む」という確信と、「救いはキリストに基づく」という確信を両立させる。「教会の外の人々は自動的に断罪される」という残酷な結論を避ける。宗教的多元主義の事実を神学的に「収容」する枠組みを提供する。
批判①——「同化の傲慢(patronizing attitude)」
ユダヤ人神学者ピンカス・ラピデや、ヒンドゥー教学者ライムンド・パニッカルからの批判——「あなた方は私を「匿名のキリスト者」と呼ぶ。しかし私は自分をキリスト者と思っていない。この命名は私の宗教的アイデンティティへの尊重を欠いている。」
これは深刻な批判だ。「あなたは知らないうちにキリスト者だ」という主張は、他者の自己理解を否定する——これはラーナーが批判した植民地主義的態度と構造的に似ていないか。
批判②——「キリスト教中心主義の温存」
多元主義者ジョン・ヒックからの批判——「匿名のキリスト者」論は、キリスト教中心主義を「優しい形」で温存する。「他の宗教も救いに至れるが、それはキリストの恩寵だ」——これは最終的に「すべての道はローマに通ず」という帝国主義的発想だ。
批判③——「実際の宗教的伝統への不敬」
比較神学の観点から——「匿名のキリスト者」論は、他の宗教伝統を「それ自体として」尊重せず、キリスト教的枠組みで「再解釈」する。仏教は「匿名のキリスト教」ではない——仏教は固有の真理・洞察・実践を持つ独立した伝統だ。
ラーナー自身はこれらの批判に向き合い、概念の修正を続けた。晩年には「キリスト者にとってキリストは決定的意味を持つが、他の宗教の救済的意味についての断定的言明は慎むべきだ」という方向に修正した。
第四部 ジョン・ヒックの多元主義——最大の挑戦
コペルニクス的転回の提案
英国の神学者・哲学者ジョン・ヒック(1922〜2012年)は、宗教的多元主義の最も体系的な擁護者だ。
彼のコアな提案——「神学的コペルニクス的転回」。
コペルニクスが「地球中心説」から「太陽中心説」に転回したように、神学は「キリスト教中心主義」から「神(神的実在)中心主義」に転回すべきだ——。
ヒックのモデル——「神的実在(the Real)」は究極的には一つだが、異なる文化・歴史・概念的枠組みを通じて異なる形で人間に現れる。YHWH・アッラー・ブラフマン・ダルマ——これらは「神的実在」の異なる「現れ(manifestation)」だ。
「神的実在そのもの(the Real an sich)」は、いかなる特定の宗教の概念によっても完全には捉えられない——カントの「物自体(Ding an sich)」の宗教的応用。
ヒックの主張の魅力
「現象学的公平さ」——すべての宗教伝統を、「どれが正しいか」という序列なしに平等に扱う。
「宗教多元性の事実への誠実さ」——世界の宗教的多様性という事実を、「他の宗教は間違っている」という断定ではなく、「神的実在への複数の応答」として理解する。
「排他主義の道徳的問題への応答」——「どの宗教に生まれたかによって救いが決まる」という排他主義の道徳的不条理を回避する。
カトリック神学からの批判
批判①——「キリストの唯一性の解体」
ヒックはキリストを「神の唯一の受肉」ではなく「神的実在の特に深い現れの一つ」として再解釈する。
カトリック神学の核心——「言葉(ロゴス)は肉となった(ヨハネ1:14)」「イエス・キリストを除いて、他の誰によっても救いはない(使徒言行録4:12)」——これらはヒックの枠組みでは受け入れられない。
ヒックの「解決策」は、これらの命題を「神話的・詩的」表現として解釈することだ——「イエスは神だ」は字義通りの形而上学的主張ではなく、「イエスへの究極的コミットメントの詩的表現」だ。
しかしカトリック神学から見れば、これはキリスト教の核心を「神話」に還元することだ——ニカイア信条の解体。
批判②——「宗教の具体性の喪失」
「神的実在(the Real)」という抽象的概念は、具体的な宗教伝統の固有性を溶解させる。
ユダヤ教の神はキリスト教の神と同じか——テオロジー的に見れば、重要な差異がある。イスラムの「アッラー」と仏教の「空(śūnyatā)」は同じ「神的実在」の現れか——これらを同一の「神的実在」のバリエーションとして扱うことは、それぞれの伝統の固有の主張を尊重しているか。
批判③——「宗教の変容力の希薄化」
宗教は人間を「変容(transformation)」させる——ヒック自身もこれを認める。しかし「すべての宗教は等しく有効だ」というメッセージは、「この特定の道に真剣にコミットすること」への動機を希薄化させないか。
「どの道でも同じ」なら、「なぜこの道を深く歩むか」という問いへの答えが弱くなる。
第五部 『主イエス(Dominus Iesus)』——ラッツィンガーの応答
2000年の宣言
2000年、信仰教理省(長官ラッツィンガー)は宣言**「主イエス(Dominus Iesus):イエス・キリストと教会の唯一性と普遍性について」**を発布した。
この文書は、ヒック的多元主義と、カトリック内部の一部の「過度な相対主義的傾向」への批判として書かれた。
核心的主張——
「イエス・キリストにおける神の啓示の唯一性と完全性」——「神の啓示がキリストにおいて完全に与えられた」という確認。
「救いにおけるイエス・キリストの唯一の媒介性」——「キリストのみが唯一の救済者だ」という再確認。
「教会の唯一性」——カトリック教会はキリストの唯一の教会と「本質的な連続性」を持つ。他のキリスト教共同体は「教会」と完全な意味では呼べない(この点はプロテスタントを傷つけ、大きな批判を受けた)。
「他の宗教の救済的価値の限界」——他の宗教の祈り・儀礼は「神の恩寵の手段になりうる」が、「同等の救済的意義を持つ」とは言えない。
批判への応答と批判
文書への批判——
多くのエキュメニカルな対話者・他宗教の対話者がこの文書に傷ついた。「40年間の対話の後退」という評価もあった。
アジア・アフリカのカトリック司教たちからも「文化的文脈への感受性の欠如」という批判があった。
文書の擁護——
ラッツィンガーの立場は「相対主義への批判」として一貫していた。「すべての宗教は等しく有効だ」という多元主義は、各宗教の真理主張を真剣に受け取らないという逆説を含む——「あなたの主張は本当だが、他の主張も同様に本当だ」というのは、実は「あなたの主張を真剣に受け取っていない」ことを意味するかもしれない。
「キリストの唯一性の確認」は「他者への尊重の欠如」ではなく、「信仰の誠実な証言」として理解すべきだ——という立場。
第六部 比較神学——第三の道
フランシス・クロニーの試み
イエズス会士フランシス・クロニー(1950年〜)の**「比較神学(Comparative Theology)」**は、包括主義と多元主義の緊張を超えた第三の道として注目されている。
クロニーのアプローチ——
「隣人の書を読むこと(reading the neighbor’s texts)」——ヒンドゥー教の聖典を、ヒンドゥー教として読む。その固有の論理・洞察・実践を内側から理解しようとする。
「他者との深い出会いが自己を変える」——ヒンドゥー教の「神への愛(bhakti)」の深みを知ることで、キリスト教的「神への愛」の理解が深まる。他者の深みが自己の深みを開く。
「宣言より前に学ぶ」——「どの宗教が正しいか」を宣言する前に、「他の宗教は何を言っているか」を深く理解する。理解が先行し、評価は後に来る。
これは「包括主義」か「多元主義」か——クロニーはこの問いを「時期尚早」として留保する。「まず深く学べ。その後、神学的評価は可能になるかもしれない」。
比較神学の神学的前提
「神の真理は一つだが、人間の理解は複数だ」——トマスの「真理は一つだ」という原則の応用。
異なる宗教伝統が異なる側面から同じ神の真理に向かっているとすれば——それぞれの伝統から学ぶことは、一つの真理への理解を深めることになる。
「キリストの充溢(plenitude)」という主張と「他からの学び」の両立——「充溢を持つ」ことは「すべてを知っている」ことではない。「充溢を持つ伝統が、他の伝統から学ぶことで、その充溢をより深く理解する」——これは矛盾しない。
第七部 実際の宗教間対話——何が起きているか
バチカンの対話機関
「諸宗教対話評議会(Pontifical Council for Interreligious Dialogue)——1964年にパウロ6世によって設立。イスラム教・仏教・ヒンドゥー教・ユダヤ教(ただしユダヤ教との対話は別機関)との対話を担当。
「宗教間共同宣言」——教皇とイスラムのイマーム・仏教の指導者との共同宣言が積み重ねられてきた。「暴力の拒否」「人間の尊厳の尊重」「環境保護」——共通の行動領域での協力。
1986年のアッシジの祈りの集い——ヨハネ・パウロ2世が世界の宗教指導者を集め、平和のための祈りを行った。各宗教が「共に祈る」ことの象徴的行為として、歴史的な出来事となった。しかし「共に祈ること」の神学的意味は論争的——「異なる宗教が同じ神に向かって祈っているか」という問いが残る。
ユダヤ教との対話——最も複雑な関係
カトリックとユダヤ教の関係は、他のどの宗教間関係よりも特別で複雑だ。
「ノストラ・アエターテ」の革命的転換——「ユダヤ人はキリストを殺した(神殺し)」という二千年の言説の否定。「ユダヤ人は神に捨てられた呪われた民だ」という神学的反ユダヤ主義の解体。
「委ねられた使命」問題——「カトリックはユダヤ人に宣教すべきか」——これは今日も論争的だ。2015年のバチカン文書——「カトリックはユダヤ人への組織的宣教活動を行わない」——これはユダヤ教とキリスト教の「二つの契約(two covenant theory)」への接近として読める一方、カトリックの「唯一の救い主キリスト」という主張との緊張を生む。
ホロコーストの影——ホロコーストは「どこでキリスト教神学が間違えたか」を示す鏡だ。「キリスト教的反ユダヤ主義がホロコーストへの道を準備した」——この歴史的責任の認識なしに、誠実なユダヤ教との対話はできない。
イスラム教との対話——緊張と希望
カトリックとイスラム教の対話は、「アブラハムの宗教」として共通の根を持ちながら、深刻な神学的・政治的緊張も持つ。
神学的共通点——唯一神信仰・預言者的伝統・イエスへの言及(イスラムはイエスを偉大な預言者として位置づける)・マリア崇敬(クルアンにはマリアへの尊敬が含まれる)。
神学的差異——三位一体の否定(イスラムはシルク—神に並ぶものを置くこと—として拒否)・キリストの神性の否定・十字架の出来事への異なる解釈。
ベネディクト16世のレーゲンスブルク演説(2006年)——「強制による改宗と暴力はイスラムに固有ではないか」という含意を持つ引用がイスラム世界の激しい反発を招いた。しかし演説の本来の論点「信仰と理性の統合」というテーマはカトリック・イスラム対話の重要な問いだ——イスラム神学にも「理性と啓示の関係」という深い問いがある。
仏教との対話——最も深い「異質性」
仏教との対話は、最も根本的な神学的問いを生む。
「神」概念を持たない(少なくとも有神論的意味では)仏教と、「唯一の人格神」を信じるカトリック——これは「同じ神への異なる道」として理解できるか。
カトリック瞑想の実践と禅の接触——トーマス・マートン(トラピスト修道士)は禅と深く対話した。「観想の実践」という共通の関心が対話の場を作った。
「空(śūnyatā)」と「神」——仏教の「空」はカトリックの「神」と同じか。ジャン・リュック・マリオン(フランスの現象学的神学者)らは「偶像なき神(God without Being)」という概念で、「神を「存在者」として規定することへの批判」においてハイデガーと仏教と対話できる地点を見出そうとした。
第八部 最も根本的な問いへ——「唯一性」とは何を意味するか
「イエスは唯一の救い主だ」——この命題の意味を問い直す
「イエス・キリストを除いて、他の誰によっても救いはない(使徒言行録4:12)」——この命題をどう理解するか。
解釈①——排他主義的解釈
「キリストの名を知り、信じる者のみが救われる。」——最も字義通りの読み。
解釈②——包括主義的解釈(ラーナー)
「救いの根拠はキリストだが、キリストを知らなくても救われる可能性がある。」——「唯一の救い主」という主張と「普遍的救済の希望」を両立させる。
解釈③——宣教論的解釈
「この命題は「他の人々が救われない」という主張ではなく、「イエスが私にとって決定的に重要だ」という証言だ。」——「唯一」は「排他」ではなく「決定的重要性」を表す。
ウォルター・ブルッガーマン(プロテスタント神学者)——「旧約聖書の神への愛の詩(「あなただけ」)は、排他的命題ではなく愛の言語だ。」愛する人に「あなただけを愛している」と言うとき、それは「他の全員を否定する」命題ではなく、「あなたへの全的コミットメント」の表現だ——これを「宗教的言語」に応用できるかもしれない。
「充溢(fullness)」と「唯一性(uniqueness)」の区別
カトリック神学者ジャック・デュピュイ(1923〜2004年)は著書「キリスト教的神学と宗教的多元主義」でこう論じた——
「キリストにおける啓示は「唯一(unique)」だが「排他(exclusive)」ではない。」
「唯一性」——キリストの啓示は他のいかなるものにも還元できない固有の性格を持つ。
「充溢(plenitude)」——キリストにおいて、他の伝統が断片的に持つものの充溢がある。しかしこれは「他の伝統に何もない」ということを意味しない。
「他の伝統の自律的価値」——他の宗教伝統は「キリスト教への準備(preparatio evangelica)」に過ぎないのではなく、固有の救済的価値を持ちうる。
デュピュイはこの著作のため、信仰教理省から調査を受けた——「過度な宗教的多元主義への接近」という批判だ。しかしその後の議論は続けられ、彼の問いはカトリック神学の重要な問いとして残った。
第九部 実践的・倫理的次元——対話の意義
「真理の問い」より先に「平和と正義の問い」
宗教的多元主義の問いには、神学的次元だけでなく、倫理的・政治的次元がある。
宗教間暴力——20世紀〜21世紀の宗教的名目での暴力(北アイルランド・中東・ミャンマー・インド・パキスタン)——は、「宗教間対話」を「神学的奢侈」ではなく「平和への必要条件」として位置づける。
**「宗教的排他主義が暴力を生む」**という単純な因果関係は否定されるべきだ——排他主義的神学を持ちながら平和的に生きる人々は多い。また多元主義的主張をしながら暴力を行う集団もある。
しかし**「自分の宗教だけが真理を持ち、他は間違いだ」という確信が、他者への軽蔑・排除・暴力への心理的素地を作りうる**ことは否定できない。
「共に正義を求めること」——宗教的多元主義の実践的表現として、「どの宗教が正しいか」という神学的論争を括弧に入れて、「この具体的な不正義に対して何ができるか」という協力の場が重要だ。
「共に生きること(conviviality)」——パウル・フィデスの提案
英国の神学者パウル・フィデスらは「共住(conviviality)」という概念を提案した——「共に食卓につくこと」を文字通りに実践することが、神学的議論に先行する。
「あなたと共に食事する。あなたを客人として迎える。あなたの物語を聴く。」——これが対話の実践的基盤だ。
神学的結論に至る前に、「互いの人間としての尊厳を認め、共に生きることを実践する」——これはラザロと金持ちの物語(ルカ16章)・善きサマリア人の物語——具体的な「隣人」への応答を優先するイエスの姿勢と共鳴する。
第十部 現在地と未来——未解決の緊張を生きる
「オープン・インクルーシビズム(Open Inclusivism)」——現在の主流
現代のカトリック神学の主流は、「排他主義でも多元主義でもない、開かれた包括主義」の方向に向かっている。
「神の普遍的救済意志の確認」——「神はすべての人の救いを望む(テモテ2:4)」——この聖書的確信を神学の出発点とする。
「キリストにおける啓示の充溢の確認」——「唯一の救い主」という主張は保持する。しかしその「唯一性」は「排他性(他は断罪される)」ではなく「決定的重要性(私にとって、そして究極的に全人類にとって)」として理解される。
「他の宗教伝統の固有の価値の承認」——他の宗教は「キリスト教への単なる準備」ではなく、固有の洞察・実践・真理を持つ伝統として尊重される。
「謙虚さ(humility)の神学」——「神の救いの働きの全体は、私たちには見えていない。神の慈悲は私たちの理解を超える。」——フランシスコ教皇の「誰が天国に行くかを決めるのは私ではない」という姿勢。
フランシスコ教皇の実践的アプローチ
フランシスコ教皇は宗教間対話において、神学的議論よりも**「共同の行動」と「友情」**を前景に出す傾向がある。
2019年の**「人間の兄弟愛に関するアブダビ宣言(Abu Dhabi Declaration)**——エジプトのアズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル=タイイブと共同署名した文書。「諸宗教の多様性は神の意志だ」という表現が含まれ、論争を引き起こした——「神は一つの宗教だけでなく多様な宗教を「望んだ」のか」という神学的問いが生じた。
フランシスコはこれを「神の許可的意志(permissive will)」として弁明した——「神は多様性を積極的に望んだのではなく、許している」。この区別は神学的に可能だが、微妙だ。
未解決の緊張——正直に認める
最後に正直に認めよう。カトリックと宗教的多元主義の問いは、「解決された」ものではない。
「キリストの唯一性」と「神の普遍的愛」の緊張は解消されていない。「他の宗教への尊重」と「宣教的使命」の緊張は解消されていない。「真理の主張」と「謙虚な対話」の緊張は解消されていない。
しかしこれらの緊張を**「誠実に生きること」**——それ自体が、カトリックと宗教的多元主義の問いへの最も誠実な応答かもしれない。
結論:緊張の中の豊かさ
宗教的多元主義の問いは、カトリック神学をより深く問わせる。
「なぜキリストが唯一の救い主なのか」——これは宗教的多元主義の挑戦なしには、これほど深く問われなかったかもしれない。
「他の宗教の真理はどこから来るか」——この問いは、「神の働きの普遍性」という神学的確信をより豊かに展開させた。
「私の信仰は他者の目にどう見えるか」——この問いは、「自己中心的な宗教理解」への批判的視点を提供した。
アウグスティヌスは「われわれの心はあなたの中に憩うまで安らわない」と言った。
この「安らわなさ」——神への渇望——は、世界中の人々に、様々な形で存在する。その渇望を、異なる文化・言語・象徴体系で表現する伝統が、世界中に存在する。
「その渇望の普遍性を神学的に確認しながら、特定の道(キリストへの道)の決定的重要性を証言する」——これがカトリックと宗教的多元主義の問いへの、現在最も成熟した応答の方向だ。
「唯一性」は「排他性」ではない。「充溢」は「完結」ではない。「証言」は「強制」ではない。「対話」は「相対主義」ではない。
これらの区別を明確に持ちながら、「互いの深みから学び、共に神の秘義の前に謙虚に立つ」——これが宗教的多元主義の時代におけるカトリック信仰の呼びかけだ。
