第十二章 ブルトマンと非神話化——実存主義との対話(20世紀中頃)
- 「現代人は電気と無線電話を使いながら」
- ルドルフ・ブルトマン——人物と形成
- 「神話(Mythos)」とは何か——概念の精密化
- 「実存論的解釈(Existentiale Interpretation)」——ハイデガーの枠組みの神学的応用
- ハイデガーとブルトマン——対話の内実
- 「ケリュグマ(Kerygma)」——宣教の中心
- バルトとブルトマンの論争——神学の二つの魂
- 「歴史的イエス」問題——ブルトマンの極端な懐疑主義
- 「非神話化」への多様な批判——左右両側から
- ブルトマンとハイデガーの「別れ」——哲学と神学の緊張
- ブルトマンの聖書解釈——具体例で見る
- 「神話化」の問い——逆向きの問い
- ブルトマンの遺産——何が残ったか
- 「非神話化」論争の神学的教訓
- この章から学ぶこと——「理解可能性と真実性の緊張」
「現代人は電気と無線電話を使いながら」
1941年。第二次世界大戦の真っ只中。
マールブルク大学の神学者ルドルフ・ブルトマンは一本の論文を書いた。タイトルは「新約聖書と神話論(Neues Testament und Mythologie)」。
その冒頭の言葉は20世紀神学の歴史に刻まれた——
「現代人が電気や無線電話を使い、病気のときに現代医学や病院の助けを借りるなら、その同じ人間が新約聖書の霊と奇跡の世界を信じることができるだろうか——それは不可能だ。」
これは「宗教批判」ではない。ブルトマンはキリスト教信仰を守ろうとした——しかし「守り方」が問題だった。
「現代人が信じられない「神話的外皮」を剥がせ——そうすれば「本当の福音」が現れる。」これがブルトマンの「非神話化(Entmythologisierung)」プログラムの核心だ。
バルトとブルトマンを並べることは意義深い——二人は同世代(バルト1886年生まれ、ブルトマン1884年生まれ)で、同じ師(ヘルマン)から学び、同じ「自由主義神学批判」から出発しながら、全く異なる方向に進んだ。
バルト——「神の言葉は人間の理解可能性に従属しない。神の言葉は「神話的表現」の中に来るかもしれないが、それを「脱神話化」することは「神の言葉の独自性」を失わせる。」
ブルトマン——「「神話的表現」は福音の本質ではなく外皮だ。現代人に届くためには「脱神話化」が必要だ——しかしそれは「内容の喪失」ではなく「内容の解放」だ。」
カトリック神学との比較から始めよう——カトリックの第十二章「近代主義断罪(1907年)」では、聖書批評に開かれたロワジーらが弾圧された。ブルトマンが試みたことは「近代主義者」たちが試みたことの徹底化だ——しかしブルトマンはプロテスタントであり、ドイツの「自由な神学的環境」で活動した。カトリックが「外側から」制度によって封じた問いを、プロテスタントは「内側から」神学的に格闘した——この違いが20世紀のカトリック・プロテスタント神学の発展の違いの一因だ。
ルドルフ・ブルトマン——人物と形成
**ルドルフ・ブルトマン(1884〜1976年)**はドイツのヴィーフェルスツェデに生まれた。父はルター派の牧師。
テュービンゲン・ベルリン・マールブルクで学んだ。マールブルクでは前章で見たヘルマンに師事した——バルトと同じ師を持つ。
ブルトマンの学問的形成は二つの柱を持つ。
第一の柱:厳密な歴史的聖書批評学——ブルトマンはヴァイス・ドライス・シュヴァイツァーらの「形式史研究(Form Criticism)」を継承・発展させた。「新約聖書の各テキストはどのような「生活の場(Sitz im Leben)」から生まれたか——初期キリスト教共同体の礼拝・宣教・教育という文脈の中で形成されたか」を問う方法論。
この方法の帰結——「福音書のほとんどの記述は「歴史的イエス」の記録ではなく、「初期キリスト教共同体の信仰の産物」だ。」ブルトマンは「歴史的イエスについて我々が知りうることはほとんどない」という極端な懐疑主義的結論に向かった。
第二の柱:マルティン・ハイデガーの実存哲学——1923年から1928年まで、ハイデガーはブルトマンと同僚としてマールブルクで教えた。この出会いがブルトマン神学を根本的に変えた。
ハイデガーの「存在と時間(1927年)」——「人間(現存在:Dasein)は「投企(Entwurf)」と「被投性(Geworfenheit)」の緊張の中に生きる。本来的実存(eigentliche Existenz)は「死への存在」としての自己への直面によって可能になる。」
ブルトマンはここに「福音の非神話化的表現」の枠組みを見た——「パウロとヨハネが語っていることは、ハイデガーが「非宗教的言語」で語っていることと構造的に一致する。」
「神話(Mythos)」とは何か——概念の精密化
ブルトマンの「非神話化」を理解するには、「神話」が何を意味するかを正確に把握する必要がある。
ブルトマンにとって「神話」とは——
「神話」は「嘘」「フィクション」「作り話」ではない。
「神話とは、あの世(das Jenseits)の力と出来事をこの世(das Diesseits)の力と出来事として語る表現形式だ。」
具体的に——
「神が雲に乗って来る」——「あの世の神的実在」を「この世の自然現象(雲)」として語る。 「悪霊が人間に取り憑く」——「人間の実存的疎外・自己喪失」を「外来の霊的存在の侵入」として語る。 「キリストが天に昇った」——「キリストの宇宙的主権」を「三層宇宙(天・地・地下)という古代的宇宙像の中の移動」として語る。
問い——「神話は「外皮」か「内容」か。
ブルトマンの立場——「神話は「表現形式(外皮)」であり、「表現内容」ではない。しかし神話的表現形式の背後に「本来の意図(Eigentliche Intention)」がある——それを「非神話化的に」取り出すことが可能だ。」
批判——「神話的表現形式と内容は分離できない。「復活」という概念から「肉体の復活という神話的表現」を取り除いたとき、残るものは「復活」と呼べるか。」
「実存論的解釈(Existentiale Interpretation)」——ハイデガーの枠組みの神学的応用
ブルトマンの「非神話化」は「除去(Eliminierung)」ではなく「解釈(Interpretation)」だ——これが重要な区別だ。
「神話的表現を取り除く」のではなく——「神話的表現の「実存論的意味(existentialer Sinn)」を解釈する。」
具体例——「十字架」の非神話化的解釈
神話的表現——「神の子が罪の贖いのために十字架で殺された。神の怒りが宥められた。」
実存論的解釈——「十字架は「自己への固執(Selbstbehauptung)」からの解放の啓示だ。「古い自己(肉に従って生きる存在)」の死と「新しい自己(霊に従って生きる存在)」の誕生——これが「十字架」の実存論的意味だ。」
具体例——「復活」の非神話化的解釈
神話的表現——「イエスは死んで三日後に肉体的に復活した。空の墓があった。弟子たちに現れた。」
実存論的解釈——「復活は「十字架の意味の開示」だ。「十字架に示された神の愛・恵み・要求が、今なお語りかけてくる力を持つ」——これが「復活の実存論的意味」だ。復活は「過去の歴史的出来事」ではなく「今・ここでの実存への要求として来る出来事」だ。」
**ブルトマン自身の言葉——「復活を信じることはキリストの宣教(Kerygma)を信じることだ。」**これは「空の墓の歴史的事実性」への信仰ではなく、「今語りかけてくるケリュグマへの応答」としての信仰だ。
ハイデガーとブルトマン——対話の内実
ハイデガーとブルトマンの関係は複雑だ。
ハイデガーは「信仰と哲学は相互排他的だ」と言った——「信仰者にとって実存論的哲学は不要だ。哲学的に問うということは「神なしで(sine Deo)」問うことを意味する。」
ブルトマンはこれに応答した——「ハイデガーの実存論的分析は「信仰の内容」を与えるのではなく「信仰の理解可能性の構造」を与える。「どう理解するか」の方法論を提供するのであって「何を信じるか」の内容を決定するのではない。」
ブルトマンの区別——「実存的(existenziell)」と「実存論的(existenzial)」
「実存的(existenziell)」——具体的な信仰決断・生きることの問い。「私はどう生きるか。」
「実存論的(existenzial)」——実存の構造の哲学的分析。「人間の実存の構造はどうなっているか。」
ハイデガーの哲学は「実存論的(構造分析)」であり、「実存的(信仰内容)」ではない——したがって信仰と哲学は「別の次元」にある。哲学は信仰の「器(Gefäß)」を与えるが「内容」は与えない。
カトリック神学との比較——カトリックもアリストテレス(トマス)・カント(マレシャル)・現象学(ラーナー)の哲学的枠組みを神学に応用した。しかしカトリックは「哲学は信仰内容の理解を助けるが決定しない」という立場を維持した——ブルトマンの「実存論的解釈」は「哲学が解釈の枠組みを決定する」という側面が強い——この違いがブルトマンへの批判の一つの焦点だ。
「ケリュグマ(Kerygma)」——宣教の中心
ブルトマン神学のもう一つの中心概念が**「ケリュグマ(Kerygma)」**だ。
「ケリュグマ」はギリシア語で「宣教の内容・宣言」を意味する。
ブルトマンにとって——「ケリュグマとは「神はキリストにおいて世界を自分に和解させた」という宣言だ。この宣言は今・ここで人間に「決断(Entscheidung)」を迫る。」
ケリュグマの機能——「ケリュグマは「過去の歴史的出来事についての情報」ではなく、「今この瞬間に人間の実存に関わる要求として来る呼びかけ」だ。」
「信仰」とは——「ケリュグマへの応答として、「肉に従った自己(本来的でない実存)」から「霊に従った自己(本来的実存)」への転換という「実存的決断」だ。」
これはブルトマンがパウロとヨハネから取り出した「本来的実存への転換」という主題の神学的表現だ——「古い人間(アダム)から新しい人間(キリスト)への転換」をハイデガー的実存論の言語で表現した。
バルトとブルトマンの論争——神学の二つの魂
バルトとブルトマンの論争は、20世紀神学の最も重要な対話の一つだ。
バルトの批判——「ブルトマンは「現代人が理解できるか」という「人間的基準」で「神の言葉」を評価している。しかし「神の言葉」は「人間の理解可能性」に従属しない。「神話的表現」の中でこそ、神の言葉は語りかけるかもしれない。「非神話化」は「神の言葉を人間の理解可能性に還元すること」だ——これは「神学の人間学への還元」という19世紀自由主義神学の繰り返しだ。」
ブルトマンの応答——「バルトは「神の言葉」を「理解不可能な神秘」として放置する。しかし「今日の人間に語りかける神の言葉」は「今日の人間が理解できる言語」で語られなければならない。「理解不可能なもの」への「信仰の決断」を要求するのは——「盲目的服従(sacrificium intellectus)」の要求だ。」
この論争の核心——「翻訳の必要性(ブルトマン)」対「神の言葉の独自性(バルト)」——これは第十章で確認した「翻訳の危険と必要」という問いの、最も鋭い20世紀的形式だ。
どちらが正しいか——この問いへの単純な答えはない。しかし両者の緊張を保持することが重要だ——「翻訳しなければ「死んだ言語」になる(ブルトマン的問い)」と「翻訳の過程で内容が変えられる(バルト的問い)」の双方を真剣に受け取ること。
「歴史的イエス」問題——ブルトマンの極端な懐疑主義
ブルトマンの「形式史研究」の帰結として、「歴史的イエスについての知識」への極端な懐疑主義がある。
ブルトマンの立場——「福音書の記述のほとんどは「初期キリスト教共同体の信仰の反映(Gemeindeprodukt)」であり、「歴史的イエスの言動の記録」ではない。」
「歴史的イエスの宣教内容については一定の知識が可能だが、イエスの「自己意識・自己理解」についてはほとんど知りえない。」
決定的な立場——「信仰にとって歴史的イエスの知識は不必要だ。信仰が根拠とするのは「歴史的イエスの確認された言動」ではなく「ケリュグマ(今語りかけてくる宣教の言葉)」だ。」
これは第八章のレッシングの問い——「偶然的歴史的真理は必然的宗教的真理の根拠になれない」——へのブルトマン的「解決」だ——「信仰は歴史的研究に依存しない。ケリュグマへの実存的応答だ。」
批判——ブルトマンの「元弟子たち」——ケーゼマン・ボルンカム・フックス——は「第二の歴史的イエス探求(Second Quest)」として、師の懐疑主義への修正を試みた。「ケリュグマとナザレのイエスの連続性なしに、ケリュグマは「神話」になる。」
カトリック神学との比較——カトリックは「歴史的イエスと信仰のキリストの連続性」を一貫して守ってきた——「受肉の具体性」への確信として。ブルトマンの「歴史的イエスへの懐疑主義」はカトリック神学にとって受け入れられない——なぜなら「具体的な歴史的人物ナザレのイエス」の実在と「信仰のキリスト」の同一性は、受肉論の核心だからだ。
「非神話化」への多様な批判——左右両側から
ブルトマンへの批判は「左(より急進的)」と「右(より保守的)」の両側から来た。
左からの批判——「なぜ神話化を止めるのか」
フリッツ・ブーリー——「ブルトマンは「非神話化」を徹底していない。「ケリュグマ」「実存的決断」——これらもまた「神話的表現」だ。「神」という概念そのものが「神話」ではないか。」
シュバイツァー学派の影響——「イエスの終末論的・黙示録的宣教は「神話的外皮」ではなく「核心」かもしれない。「神話を除去する」ことは「核心を除去すること」になる。」
右(保守的)からの批判——「これはもはやキリスト教ではない」
バルト——上述の通り。「神の言葉を人間の理解可能性に従属させることは「神の言葉」を失うことだ。」
エルンスト・ケーゼマン(ブルトマンの弟子)——「ケリュグマと歴史的イエスの分離は「神話的キリスト」を生む。パウロもヨハネも「歴史的イエスとの連続性」を前提している。」
カトリックからの批判——「「非神話化」の後に残る「実存論的自己理解」は、イエス・キリストという「具体的な歴史的人格の神的存在」への信仰と一致するか。「復活」を「十字架の意味の開示」として理解することは、「肉体の復活という歴史的主張」を維持しているか。」
ブルトマンとハイデガーの「別れ」——哲学と神学の緊張
ブルトマンとハイデガーの対話は、後に「別れ」を経験した——神学的ではなく政治的に。
1933年、ハイデガーはナチス党に入党し、フライブルク大学学長としてナチス体制への支持を表明した。
ブルトマンは沈黙しなかった——ユダヤ人同僚への支持を表明し、バルトが起草したバルメン宣言を支持した。
この「政治的別れ」は神学的示唆を持つ——「ハイデガーの哲学的枠組みは「中立的な道具」か」という問いだ。ハイデガーがナチズムへの親和性を示した「存在論的枠組み」を、ブルトマンは「福音の解釈枠組み」として使っていた。「道具は中立か」という問いは避けられない。
カトリック神学との比較——カトリックがアリストテレスをトマスのために使ったとき——「アリストテレスの哲学がキリスト教に与えた影響は、「中立的な道具の使用」か「哲学的前提による内容の変更」か」という問いは同型だ。どんな哲学的枠組みも「完全に中立」ではない——これはブルトマンとトマス双方への問いとして立つ。
ブルトマンの聖書解釈——具体例で見る
ブルトマンの「実存論的解釈」がどのように機能するかを、具体的な新約聖書テキストで見てみよう。
ヨハネ3:16——「神はその独り子を賜ったほど世を愛された。」
神話的表現——「天上の神的存在が「独り子」を「地上」に送った。宇宙的規模の出来事。」
実存論的解釈——「神の愛は「自己を与えること」として現れる。「世を愛した」——これは人間存在の根底への無条件の肯定として来る。「独り子」——神の「最も深いもの」の贈与として来る愛の究極性。これへの「応答」として人間の実存は変容する。」
コリント第一15章——「死者の復活」
神話的表現——「死んだ人間が「肉体的に」復活する終末の出来事。「キリストの復活体」という神話的物語。」
実存論的解釈——「「罪(自己への固執)の下にある存在様式(古い人間)」から「神への開放性の中での存在様式(新しい人間)」への転換——この転換は「今ここで」始まっている。「復活」は終末の未来的出来事だけでなく「今の実存的変容」として先取りされる。」
批判—— 「これでは「死者の復活」という命題は「今の実存的変容の象徴」になる。しかしパウロが「もしキリストが復活しなかったなら、私たちの信仰は空虚だ(15:14)」と言ったとき——これは「実存的変容の象徴の問い」ではなく「事実性の問い」だ。」
ブルトマンへの応答——「パウロ自身が「神話的表現形式」で語っているだけだ。その「実存論的意図」は「ケリュグマへの応答としての実存変容」にある。」
「神話化」の問い——逆向きの問い
ブルトマンへの興味深い「逆向きの問い」がある——「非神話化」ではなく「神話化」の意義。
ポール・リクール(フランスの哲学者・解釈学者)は、ブルトマン的「非神話化」を批判しながら、「第二の素朴さ(Second Naïveté)」という概念を提案した。
「最初の素朴さ(First Naïveté)」——批判的吟味以前の「神話を文字通りに受け取ること」。 「批判的距離(Critical Distance)」——「非神話化・歴史的批評」による神話の「外皮」の吟味。 「第二の素朴さ(Second Naïveté)」——批判を経た後の「象徴・神話の「第二の直接性」への開放」。
「「神話」は「外皮(除去すべきもの)」ではなく「象徴(意味を生きる形式)」として、批判的距離を経た後に「より深い意味で受け取られる」可能性がある。」
これはブルトマン的「非神話化」でも正統主義的「神話の文字通り解釈」でもない——「第三の道」として重要だ。
カトリック神学との共鳴——カトリックの「象徴・典礼・秘跡的思考」は「第二の素朴さ」の構造を持つ——「意味を「身体的・感覚的・象徴的に」生きること」。ブルトマンが「除去すべき外皮」とした「神話的表現」を、カトリックは「意味の不可欠な担い手(sacrament)」として理解する。これはカトリックとプロテスタントの礼拝・秘跡観の違いの神学的根拠の一つだ。
ブルトマンの遺産——何が残ったか
ブルトマンへの批判は多いが、彼の貢献は消えない。
第一の遺産:「理解可能性の問い」の提起
「信仰の内容を、信仰を持たない人々・近代的思考に生きる人々に「理解可能な形」で語ることは可能か・必要か」——この問いはブルトマルから逃げられない。
「神話的言語で語れば良い」という応答は——「誰にとっての「神話的言語」か」という問いが返ってくる。3世紀の宇宙像(三層宇宙)は今日の多くの人に「理解の枠組み」を提供しない——これはブルトマンの正当な観察だ。
第二の遺産:「聖書テキストの生活の場(Sitz im Leben)」研究
ブルトマンの形式史研究は——聖書テキストが「初期キリスト教共同体の具体的な文脈(礼拝・宣教・教育)」の中で形成されたという理解を確立した。これは今日のカトリック・プロテスタント双方の聖書学の共有された方法論的遺産だ。
第三の遺産:「解釈学的問い」の深化
ブルトマンの「実存論的解釈」はその内容に問題を持つ——しかし「テキストの意味はどこにあるか」「読者の「先理解(Vorverständnis)」はどう機能するか」という解釈学的問いを深化させた。これはシュライアーマッハーの解釈学(第九章)をハイデガー的に深化した成果として、現代の聖書解釈学の基盤の一部だ。
「非神話化」論争の神学的教訓
ブルトマンをめぐる論争から引き出せる教訓を整理しよう。
第一の教訓:「翻訳」と「歪曲」の区別の困難さ
「信仰の内容を時代の言語で表現すること」——これは第一章のヨハネが「ロゴス」でイエスを語ったとき以来の「翻訳」の問いだ。
ブルトマンの「非神話化」は「翻訳」を意図した——しかし批判者は「歪曲」と見た。
この「翻訳/歪曲」の境界線はどこか——単純な答えはない。しかし「翻訳」が「内容の本質的変更」を含む場合——それはもはや翻訳ではない、という原則は保持できる。
第二の教訓:「哲学的枠組みの中立性」への疑問
ブルトマンがハイデガーを使ったように、トマスはアリストテレスを使った。どんな哲学的枠組みも「完全に中立」ではない——枠組みは「何が重要か」を先規定する。
「どの哲学的枠組みが「福音の表現」に最も適切か」——これは継続的な神学的問いとして残る。
第三の教訓:「歴史性」の問いからの逃走不可能性
ブルトマンは「ケリュグマは歴史的証明に依存しない」と言って「歴史性の問い」から逃げようとした——しかし「歴史的イエスとの連続性なしのケリュグマ」は「空中に浮いた神話」になる危険を持つ。
「歴史的イエスは確かに存在した」「十字架は歴史的事実だ」——これらなしに「ケリュグマへの実存的応答」は何に応答しているか。
この問いへの最も生産的な応答として——N・T・ライトらの「第三の歴史的イエス探求(Third Quest)」が展開された(第二十章)。
この章から学ぶこと——「理解可能性と真実性の緊張」
ブルトマンから学べる最も深いことは——「信仰の内容を「今・ここ」の人々に届けたい」という情熱の誠実さだ。
「現代人が理解できない言語で語られる信仰は——届かなければ意味がない。」これはブルトマンの正当な問いだ。
しかし同時に——「届けやすいように「内容を変える」ことは——「真実を伝えること」にならない。」これはバルトの正当な問いだ。
説教者・宣教者・神学生は——この緊張の中に立つ。「「理解可能性」と「真実性」の両方を犠牲にしないこと」——これがブルトマンとバルトの論争が今日に残す実践的課題だ。
カトリック神学は「典礼」という具体的な実践において、「象徴・身体・共同体的儀礼」という「非概念的な理解可能性」を保ってきた。これはブルトマンが「除去すべき外皮」とし、バルトが「神の言葉への礼拝的応答」として部分的に評価した次元だ。
「身体で理解する礼拝」——これはブルトマン的「概念的理解可能性への還元」でもなく、バルト的「神の言葉の純粋な聴取」でもない——「象徴・典礼・共同体的実践を通じた「全体的理解」」という第三の道として、現代のプロテスタント神学とカトリック神学の最も豊かな対話点の一つを提供する。
次章では、バルト・ブルトマンと同時代に、全く異なる方向から20世紀の問いと格闘したディートリヒ・ボンヘッファーを見ていく。ナチス体制への抵抗の中で獄中から書かれた「成熟した世界でのキリスト教」という問い——「宗教なきキリスト教」「他者のための存在」——これらの概念は未完のまま彼の死とともに終わったが、その断片は今日も鋭さを失わない。
