第11章 なぜ専門職は沈黙するのか

第11章 なぜ専門職は沈黙するのか

――倫理的引き裂かれと燃え尽き


 精神科医になって数年が経った頃、私はある上司に言われた言葉を今も覚えている。

 「患者のことを社会の問題として語り始めたら、臨床家としては終わりだよ。私たちにできることをやればいい」

 その言葉は、善意から来ていた。若い医師が理想主義に燃えて消耗しないようにという、経験者からの忠告だったと思う。そしてその忠告には、一定の実践的な知恵が含まれていた。目の前の患者に集中すること、できないことに囚われないこと、これらは臨床家の精神的な健康を保つために必要なことだ。

 しかし私はその言葉に、どこか引っかかりを感じ続けた。

 「社会の問題として語ること」を禁じることで、何が守られ、何が失われるのか。臨床家の「沈黙」は、誰のための沈黙なのか。その問いが、本章のテーマだ。


専門職の沈黙という現象

 医師、看護師、精神保健福祉士、社会福祉士、臨床心理士――精神医療と福祉に関わる専門職は、その職務の性質上、社会の矛盾と苦しみの最前線に立っている。前章までで論じてきたように、彼らの診察室と支援の場には、経済的困窮、社会的孤立、制度の失敗、政治的な無策が、個人の症状と苦しみという形で流れ込んでくる。

 しかし彼らの多くは、公的な場で社会や政治について語らない。医師会は政治的な意見表明を控える傾向がある。個々の臨床家は、ソーシャルメディアでも職場でも、「専門職としての中立性」を保つことを自らに課す。社会の構造的な問題を指摘する声は、専門職の集合的な発言としてはほとんど上がらない。

 なぜか。

 この沈黙は、いくつかの層からなっている。


第一の層:「中立性」という職業規範

 専門職の沈黙の最初の層は、「中立性」という規範だ。

 医師は政治的立場を超えて患者を診る。社会福祉士はどのような背景の利用者にも平等に関わる。この中立性は、専門職の信頼性の基盤だ。もし医師が特定の政治的立場を公言すれば、異なる政治的立場を持つ患者は、その医師に診てもらうことへの抵抗を感じるかもしれない。中立性は、全ての人に開かれた専門的サービスのための条件だ。

 この論理には正当性がある。しかしここに、一つの重要な混同が潜んでいる。

 「全ての患者に平等に関わること」と「社会の構造的問題について発言しないこと」は、同じではない。前者は専門職の倫理的要請だが、後者はその要請から論理的に導かれるわけではない。

 たとえば、貧困が健康を損なうという事実を指摘することは、政治的な偏向ではなく、科学的な知見の共有だ。医療費の削減が患者の受療機会を狭めているという問題を指摘することは、党派的な発言ではなく、臨床の現場から見えている事実の報告だ。しかし現実には、この種の発言も「政治的なもの」として自己規制されることが多い。

 「中立性」の規範が、事実の指摘まで飲み込んでいく。この過剰な中立性は、結果として現状維持を支持することになる。沈黙は中立ではない。構造的な問題への沈黙は、その構造の承認だ。


第二の層:「専門性」という囲い込み

 沈黙の第二の層は、「専門性」という概念の使われ方だ。

 専門職は、自分の専門領域の外では発言しないという規範を内面化している。医師は医学的なことについては発言できるが、経済政策については「専門外だ」と語ることを控える。臨床心理士は心理学的なことは語れるが、住宅政策については「自分の領域ではない」と感じる。

 この「専門性による囲い込み」には、認識論的な謙虚さという合理的な根拠がある。自分が知らない領域で不用意に発言することは、誤りを広める危険を持つ。専門家が専門外のことについて語るとき、その権威が不当に利用される危険もある。

 しかし問題は、臨床家が毎日目撃していることの多くが、この「専門性の囲い込み」によって語れなくなることだ。

 貧困が健康を損なうことを日々見ている医師は、貧困そのものについて語る専門家ではない。しかし貧困と健康の関係については、他の誰よりも豊富な経験的知識を持っている。この知識は、「医学的専門知識」と「社会学的専門知識」のどちらに属するのか。そのどちらでもなく、その境界を生きる知識だ。しかし境界を生きる知識は、どの専門領域にも「完全には属さないもの」として、発言の場を与えられにくい。

 専門性は、知の深化をもたらすと同時に、知の断片化をもたらす。断片化された知は、社会の全体像を語ることができない。そして全体像が語られないとき、構造的な問題は見えなくなる。


第三の層:「感情の管理」という訓練

 沈黙の第三の層は、専門職訓練の中で行われる「感情の管理」だ。

 臨床家の教育において、感情の節制は重要な要素として教えられる。患者に感情的に引きずられないこと、適切な距離を保つこと、逆転移を管理すること。これらは患者を守るためにも、臨床家自身を守るためにも必要な訓練だ。

 しかしこの「感情の管理」の訓練が、怒りの管理にもなる。

 目の前の患者が、理不尽な状況に置かれていることへの怒り。制度の不備によって必要な支援が届かないことへの怒り。構造的な問題が個人の責任にされることへの怒り。これらの怒りは、臨床家として当然持ちうる、人間的な反応だ。しかし「感情を管理する専門家」として訓練されると、この怒りも管理の対象になる。

 「感情的になってはいけない」「客観的であるべきだ」という規範が、正当な怒りを抑圧する。怒りを感じることは許されても、それを表現することは「非専門家的」として自己規制される。

 しかし怒りを失った専門家は、何かを失っている。怒りは、「これは不当だ」という倫理的判断の感情的な表現だ。正当な怒りを持てない専門家は、不当な状況を不当として認識する感度が鈍る。感情の管理が、倫理的感受性の管理になる。


第四の層:制度的な脆弱性

 沈黙の第四の層は、より現実的な、制度的な脆弱性だ。

 病院に勤務する医師は、病院という組織の中で働いている。その医師が、病院の経営方針を批判したり、医療費削減政策を公的に批判したりすることには、職業的なリスクが伴う。社会福祉施設の職員が、施設の運営する法人や、その法人に補助金を出す行政を批判することは、雇用上の危険を持つ。

 これは特定の個人や組織が意図的に発言を封じているわけではないことが多い。しかし「空気を読む」文化、「組織に迷惑をかけるな」という超自我的規範(第4章参照)が、発言を事前に抑制する。「問題を起こす人間」として評価されることへの恐れが、発言を思いとどまらせる。

 フリーランスや開業医の場合、組織への従属は少ないが、別の脆弱性がある。患者や利用者との関係への影響、地域の医療コミュニティの中での評判、紹介ネットワークへの影響――これらへの懸念が、発言を抑制することがある。

 制度的な脆弱性は、個人の勇気の問題ではなく、構造的な問題だ。個人が勇気を振り絞って発言しても、それがコストを伴う構造は変わらない。発言するための安全が、制度的に保障されていない。


「倫理的引き裂かれ」という苦境

 これらの層が重なるとき、真剣に仕事をしている臨床家ほど、深刻な「倫理的引き裂かれ」を経験する。

 倫理的引き裂かれ(moral distress)とは、何が正しいかはわかっているのに、制度的・組織的な制約によって正しいことができない状態が続くときに生じる苦悩だ。看護倫理の研究者アンドリュー・ジャミートンが提唱したこの概念は、もともと看護師が経験する苦境を描くために使われたが、今日では広く医療・福祉の専門職一般に適用されている。

 具体的にはこういう状態だ。「この患者には、もっと時間をかけて話を聴くべきだとわかっている。しかし次の患者が待っている。時間がない」。「この利用者には地域での生活を続けてほしい。しかし制度上使えるサービスの限界に来ている」。「この職場の体制は患者にとって良くない。しかし声を上げる立場にない」。

 一つ一つは小さな妥協に見える。しかしこの妥協が日々積み重なるとき、臨床家の内部に何かが蓄積していく。自分がやっていることと、やるべきだと思っていることの乖離。その乖離は、最初は不快感として経験されるが、やがて麻痺として現れる。「これが現実だから仕方ない」という適応が起きる。

 この麻痺こそが、倫理的引き裂かれの最も危険な段階だ。不快感があるうちは、まだ倫理的感受性が生きている。しかし麻痺すると、不当な状況を不当として感じなくなる。


燃え尽きという帰結

 倫理的引き裂かれが解消されず蓄積し続けるとき、その帰結の一つが燃え尽き(バーンアウト)だ。

 バーンアウトは、しばしば「頑張りすぎた結果」として個人の問題として語られる。「あの人は自己管理が下手だった」「もっとうまくやれれば燃え尽きなかった」という形で、消耗した個人に原因が帰せられる。これは第4章で論じた自己責任論の、臨床家版だ。

 しかしバーンアウトの研究者クリスティーナ・マスラックが示したように、バーンアウトの主要な原因は個人の資質ではなく、職場の構造的特性だ。仕事量の過負荷、コントロールの欠如、十分な報酬の欠如、コミュニティの崩壊、公正さの欠如、そして価値の葛藤。これらの構造的要因が揃うとき、どれほど有能で熱心な専門家でも、燃え尽きのリスクにさらされる。

 「価値の葛藤」は、倫理的引き裂かれと深く関係する。自分が正しいと思うことと、制度が要求することの乖離が大きいほど、消耗は深い。精神医療・福祉の専門職は、この価値の葛藤にさらされやすい職種だ。「人を助けたい」という動機で入職した人が、「書類を書く人」として機能させられるとき、その乖離は特に大きい。

 燃え尽きた専門家は、沈黙する。消耗しきった人は、発言するエネルギーを持たない。倫理的引き裂かれが燃え尽きに至るとき、沈黙は「選んだもの」ではなく、「残ったもの」になる。


沈黙の社会的機能

 ここで、より構造的な問いを立てたい。

 専門職の沈黙は、社会的にどのような機能を持つか。

 精神医療・福祉の専門職は、社会の矛盾を最も鮮明に見ている人々だ。もし彼らが集合的に声を上げれば、社会問題の可視化に大きな力を持つはずだ。「私が診ている患者の多くは、貧困と孤立の中にいる。これは個人の問題ではなく、社会の構造の問題だ」という声が、何万人もの臨床家から発せられれば、それは無視できない。

 しかしその声は、上述のさまざまな理由によって、組織化されることなく、個別の診察室と支援の場に分散したまま残る。それぞれの場で見えているものが、共有されず、集約されず、社会的な言語を持たない。

 この分散した沈黙は、構造的な問題を維持する力を持つ。専門職が沈黙する限り、社会の矛盾を最もよく知る人々の声は、社会に届かない。代わりに、問題は「個別事例」として処理され、構造は問われない。

 誰かが意図してこの沈黙を作っているわけではない。しかしこの沈黙から最も利益を得るのが誰かを考えると、その沈黙の政治的な意味が見えてくる。


沈黙を破ることの困難と必要

 では、沈黙を破るべきか。

 簡単にそう言えない理由がある。沈黙を破ることのコストは、実在する。職業的リスク、関係への影響、消耗するエネルギー。これらを無視して「発言せよ」と言うことは、また別の種類の無責任だ。

 また、すべての専門家が公的に発言すべきだという議論には、慎重でなければならない。患者との関係を最優先に守ることを選ぶ臨床家の姿勢を、「沈黙への加担」として批判することは、臨床の仕事の固有の価値を損なう。

 しかし、沈黙を維持することの倫理的コストもまた、認識されるべきだ。

 沈黙は無害ではない。沈黙は現状を肯定する。専門職の集合的な沈黙は、制度の問題を不可視化する。最も問題を見ている人々が語らないとき、問題は語られない。

 必要なのは、二項対立の解消だ。「完全に沈黙するか、すべてを発言するか」ではなく、自分の立場と状況の中で、どこまで、どのように語れるかを問い続けること。小さくても、語れる場所で語ること。臨床の知を、制度の改善に向けて届けようとすること。

 その積み重ねが、専門職の集合的な声を少しずつ作っていく。


「感情的距離」の再考

 本章を閉じるにあたって、冒頭の上司の言葉に戻りたい。

 「患者のことを社会の問題として語り始めたら、臨床家としては終わりだよ」

 今の私は、この言葉を少し違う形で受け取る。

 患者のことを社会の問題「だけ」として語ることには、確かに問題がある。目の前の個人の苦しみが、「社会問題の事例」として抽象化されるとき、その人の固有性が消える。臨床の場で必要なのは、統計的な社会分析ではなく、この人への関与だ。上司の言葉は、この意味では正しい。

 しかし「社会の問題として語ること」が臨床の「終わり」なのではなく、むしろ深化ではないか、と今は思う。目の前の患者の苦しみを深く理解しようとするとき、その苦しみを生み出している文脈を理解しないことは、理解の放棄だ。社会の構造を見ることは、患者から距離を取ることではなく、患者に近づくための別の経路だ。

 感情的距離を保ちながら、社会への怒りを持ち続けること。個人の治療に専念しながら、その個人を苦しめる構造を問い続けること。この両立は難しい。しかしその難しさこそが、誠実な臨床家が生きるべき緊張だと私は考えている。

 沈黙は、その緊張から降りることだ。そして降りることで、何かが守られているように見えて、実は何かが、静かに失われていく。

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