ナルシスティック・サプライ

努力がときどき報われることがある。
それはたいてい、他人からの賞讃だったり、感謝だったりすることが多い。
そのように、他人の評価に依存しているのだと思う。
それは自分の自己愛を刺激している。
自己愛が満足する感覚が、報われたと思う感覚につながっている。

ナルシスティック・サプライの話につながる。
人は自己愛備給を常に求めていて、恒常的な備給を確保したいと思っている。

それはいいのだが、逆の場合もある。
そのときにもあまりがっかりしないでいられるのは、やはり、訓練である。

最初から、なかったのだと、客観的に見つめればよい。
最初からなかったのだから、現在もなくて、当然である。

サプライなど、幻想であり、あってもよいが、
なくても自分で立つことができる人でありたい。

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