ボードリヤールとフロイト


Ⅰ.フロイト的欲望論との衝突

― 欲望は「内側」から来るのか?

1.フロイトの基本構図(極端に要約すると)

フロイトにとって欲望とは:

  • 身体的衝動(リビドー)に根ざす
  • 抑圧され、変形され、象徴化される
  • 症状・夢・言い間違いとして回帰する

つまり、

欲望=抑圧された内的エネルギーの歪んだ表現

ここでは「内面」が確固として存在します。


2.ボードリヤールの異議申し立て

ボードリヤールは、この前提自体を疑う。

現代社会において、
欲望はもはや抑圧されていない。
むしろ過剰に生産され、誘導され、管理されている。

決定的なズレ

フロイトボードリヤール
欲望は内的欲望は外部で生成
抑圧が病理を生む刺激の過剰が空虚を生む
禁止が中心許可・推奨が中心
症状は抵抗症状すら記号化

広告は「誘惑」ではなく、
欲望の設計図


3.精神分析は無効になるのか?

ここが鋭いところで、ボードリヤールはこう含み笑いをする。

  • 分析による「欲望の言語化」
  • 本当の欲望を見つける、という物語

それ自体が、高度に洗練された消費文化ではないか?

👉 精神分析は、
欲望の解放ではなく、欲望管理の最終段階になりうる。

(かなり挑発的ですが、否定しきれない)


Ⅱ.回復モデル・実存療法との緊張関係

―「希望」は薬か、毒か

1.回復モデルの倫理的美点

回復モデルは本来:

  • 症状の消失をゴールにしない
  • 意味・主体性・希望を尊重
  • 「その人の人生」を取り戻す

臨床家として、ここに救われた経験は多いはず。


2.ボードリヤール的視点からの違和感

彼の目で見ると、回復モデルはこう映る。

「希望」「目標」「自己決定」
それらは、新しい規範語彙ではないか?

問題は「誰の言葉か」

  • 希望を持て
  • 夢を語れ
  • 自分の回復像を描け

それが制度の言語になった瞬間、

  • 回復できない人
  • 希望を持てない人
  • 意味を語れない人

は、二重に排除される。


3.実存療法との微妙な距離

実存療法は、ボードリヤールに一番近い。

  • 無意味
  • 不条理
  • 根拠なき自由
  • 希望なき選択

しかし、ここにも罠がある。

「意味を引き受けよ」という呼びかけ自体が、
過酷な倫理命令になる瞬間。

臨床的に言えば

  • 「意味を見つけられない苦しみ」を
  • 「意味を見つけよ」という言葉で
  • さらに追い詰める

ここに、回復モデルと実存療法の共通の緊張がある。


Ⅲ.SNS時代:自己=ブランド

― ボードリヤールが「正しかった」世界

1.自己はもはや存在しない?

SNSで起きていること:

  • 自己紹介
  • 発信
  • 反応(いいね)
  • アルゴリズム評価

これは心理表現ではなく、

記号の流通市場

自己とは:

  • 内面の表現 → ❌
  • 最適化された表示 → ⭕

2.「本当の自分」という幻想

フロイト的問い:

なぜ私はこう感じるのか?

SNS的問い:

どう見えるか?
伸びるか?
評価されるか?

ここでは内省は不要。

パフォーマンスが全て


3.抑うつ・不安の新しい形

臨床的に重要なのはここ。

  • 抑圧神経症 → 減少
  • 空虚・自己消失感 → 増加
  • うつ →「失敗したブランド」の感覚

「私は何者でもない」ではなく、
「私は表示されない」

これはフロイトの時代には存在しなかった苦しみ。


Ⅳ.三者を貫く一本の軸

整理すると:

  • フロイト:欲望は内から噴き出す
  • 回復・実存:主体が意味を引き受ける
  • ボードリヤール:主体も欲望も外で組み立てられる

そしてSNSは、
ボードリヤールの世界を日常技術にした。


Ⅴ.臨床家として、ではどう立つか

ボードリヤールは処方箋を出さない。

しかし、臨床的に言えることは一つ。

「欲望を語れ」でも
「希望を持て」でもなく、
**「語れない状態に留まる自由」**を守ること。

沈黙、停滞、回復しなさ。
それを失敗ではなく、抵抗として読む視点


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