現代日本社会における倫理的規範の変容
――新自由主義と技術革新が生み出す「法の隙間」と共感性の喪失――
1. 序論:問題の所在
現代日本社会は、従来の犯罪学や社会学の枠組みでは十分に説明しきれない新たな社会病理現象に直面している。いわゆる「匿名・流動型犯罪集団」(トクリュウ)の台頭、SNSを通じた「闇バイト」による犯罪実行犯の募集、詐欺的商法の横行、そして2024年の兵庫県知事選挙において顕在化した政治活動における倫理的逸脱行為など、枚挙にいとまがない。
これらの現象に共通するのは、「法律で明文として禁止されていない限り、何をしても構わない」という極端な法実証主義的態度と、被害者や社会全体への共感性の欠如である。法規範と社会規範の乖離、すなわち「法の隙間」を意図的に狙い、そこで利益を獲得する行為者が増加している。法改正や判例によって一つの隙間が塞がれれば、次の隙間を探すという「いたちごっこ」が繰り返される。
本論考では、このような現象の背後にある社会構造的要因を探る。特に、1980年代以降日本社会に深く浸透した新自由主義的イデオロギーと、IT技術をはじめとする技術革新が、人々の精神構造や倫理観にいかなる影響を及ぼしているのかを考察する。マルクス主義的な枠組みを援用すれば、経済制度(下部構造)の変化が、倫理観や価値観(上部構造)をどのように規定するのかという古典的問題を、現代日本社会の文脈において再検討することになる。
2. 現代犯罪の変容:組織性と技術性の融合
2.1 匿名・流動型犯罪集団の特性
警察庁が「トクリュウ」と呼称する匿名・流動型犯罪集団は、従来の暴力団組織とは質的に異なる犯罪形態を示している。その特徴は以下の点に集約される。
第一に、組織の流動性である。固定的な上下関係や所属関係を持たず、犯罪の都度、SNSや暗号化されたメッセージアプリを通じて実行犯を募集し、事後は解散するという「プロジェクト型」の組織形態をとる。これにより、組織の全容解明が困難となり、一部の構成員が検挙されても組織そのものの活動を継続することが可能となる。
第二に、匿名性の徹底である。Telegram、Signalなどのエンドツーエンド暗号化アプリケーションを使用することで、通信内容の秘匿性を確保する。実行犯は指示者の素性を知らず、互いに本名も顔も知らないまま犯罪を遂行する。この匿名性は、犯罪への心理的ハードルを下げるとともに、罪悪感の希薄化をもたらす。
第三に、技術の戦略的活用である。仮想通貨による報酬支払い、GPS追跡技術を用いた監視、SNSアカウント売買による身分偽装など、最新のIT技術を犯罪インフラとして巧妙に組み込んでいる。
2.2 技術革新と犯罪機会の拡大
歴史的に見れば、新技術の登場は常に新たな犯罪類型を生み出してきた。自動車の普及は自動車窃盗やひき逃げを、電話の普及は振り込め詐欺を可能にした。現代においては、インターネット、スマートフォン、そして政府主導のデジタル化政策(マイナンバーカード、ネットバンキング、キャッシュレス決済など)が、新たな犯罪機会を提供している。
重要なのは、これらの技術が犯罪を「効率化」し、かつ「遠隔化」することで、犯罪行為者と被害者の心理的距離を拡大させる点である。スタンレー・ミルグラムの服従実験が示したように、被害者の苦痛が直接見えない状況では、人間は残酷な行為を実行しやすくなる。デジタル技術を介した犯罪は、まさにこの心理的距離の拡大を構造的に組み込んでいるのである。
3. 「法の隙間」と倫理の後退
3.1 法実証主義の歪んだ解釈
法治国家において、「法で禁止されていないことは許される」という原則は、基本的人権の保障という観点から重要である。しかし、この原則が「法で明文禁止されていなければ、倫理的に問題があっても構わない」という極端な法実証主義へと変質している現象が見られる。
ハーバート・ハートが指摘したように、法規範と道徳規範は異なる規範体系であるが、両者は完全に独立したものではない。健全な社会においては、法規範は社会の倫理的共通感覚(common morality)を背景として機能する。法と倫理の間には、慣習、社会規範、常識といった「中間領域」が存在し、この領域が社会の柔軟性と安定性を保証してきた。
しかし現代では、この中間領域が崩壊しつつある。「法的に問題ない」という弁明が、倫理的責任を免除する魔法の呪文として機能する。詐欺的契約を「合法的な商取引」と主張し、誤解を誘う広告を「表現の自由」と居直り、政治的扇動を「言論活動」と正当化する。法の文面に触れなければ、どれほど社会に害悪をもたらしても良心の呵責を感じない――そうした態度が、一部の人々の間で常態化している。
3.2 法の事後性と被害の累積
法制度が本質的に持つ「事後性」の問題も、状況を悪化させている。法律も警察も裁判も、基本的には事後的にしか機能しない。新しい類型の犯罪や脱法行為が出現しても、立法による対応には時間を要する。その間、被害は累積し続け、行為者は利益を得続ける。
さらに問題なのは、法規制が実現しても、行為者たちは単に「次の隙間」を探すだけだという点である。特定商取引法の改正によってある種の悪質商法が規制されれば、別の契約形態を考案する。ある種のネット詐欺が摘発されれば、別のプラットフォームや手法に移行する。このような「法の隙間探し」を専門とする者たちにとって、法改正はビジネスモデルの更新を促す「イノベーションの契機」に過ぎないのである。
3.3 予防的規制の困難性
それでは、より予防的・包括的な法規制を行えばよいのではないか、という反論もあろう。しかし、過度に予防的な立法は、別の深刻な問題を引き起こす。漠然とした規制は法的安定性を損ない、恣意的な法執行の余地を生む。何が許され、何が許されないのかが事前に明確でなければ、市民の自由な活動が萎縮する。
したがって、「法の隙間」の存在そのものは、法技術的に不可避である。問題は、その隙間を埋めてきたはずの倫理規範、社会規範、常識といった「非法的な社会統制」が機能不全に陥っていることにある。法だけに依存する社会は脆弱である。法が機能するためには、それを支える倫理的基盤が必要なのである。
4. 技術と共感性:デジタル化がもたらす心理的変容
4.1 対人交流の希薄化と共感性の発達
共感性(empathy)は、他者の感情や立場を理解し、それに適切に応答する能力である。発達心理学の知見によれば、共感性は生得的な要素と環境的要素の相互作用によって発達する。特に、幼少期から青年期にかけての対面的な人間関係の経験が、共感性の発達に決定的な役割を果たす。
スマートフォンやソーシャルメディアの過度な使用が、特に若年層の対人交流を質的・量的に変化させている可能性が指摘されている。ジーン・トウェンギらの研究によれば、2010年代以降、スマートフォンが普及した世代(いわゆる「Z世代」)において、抑うつ傾向の増加、対面コミュニケーション能力の低下、共感性の減退といった傾向が観察されている。
もちろん、因果関係の方向性は単純ではない。スマートフォン使用が共感性を低下させるのか、それとも元々共感性の低い個人がスマートフォンに依存しやすいのか、あるいは両方の相互作用が悪循環を形成しているのか。おそらく、これらすべての要因が複雑に絡み合っているのであろう。
4.2 IT業界と「アスペルガー的」気質
興味深いことに、IT業界、特にプログラミングやシステム開発に従事する「IT土方」と俗称される層において、いわゆる「アスペルガー的」な気質、すなわち高度な論理的思考能力と引き換えに、社会的コミュニケーション能力や共感性に困難を抱える傾向が、しばしば観察されるという指摘がある。
ここでも因果関係の問題が生じる。自閉症スペクトラム(ASD)的な認知特性を持つ者が、システマティックで非社会的な仕事であるプログラミングに惹かれるのか(選択効果)、それとも長時間コンピュータと向き合い、人間との交流が少ない労働環境が、そうした特性を強化するのか(環境効果)。
サイモン・バロン=コーエンの「共感性-システム化理論」によれば、人間の認知スタイルには「共感化」と「システム化」という二つの次元があり、ASD傾向の強い個人は、共感化よりもシステム化に優れる傾向がある。IT技術という、まさに「システム化」の極致である領域が、そうした認知特性を持つ人々を引きつけ、また強化する可能性は十分に考えられる。
4.3 技術決定論への警告
しかし、技術決定論――技術が人間の精神を一方的に規定するという考え方――には注意が必要である。技術は社会的文脈の中で使用され、その影響は使用者の意図、社会制度、文化的価値観などによって媒介される。スマートフォンもSNSも、それ自体が本質的に有害なわけではない。問題は、それらの技術が、どのような社会経済システムの中で、どのような価値観に基づいて使用されているかである。
次節では、まさにその「社会経済システム」、特に新自由主義イデオロギーが、技術と倫理の関係をどのように媒介しているかを検討する。
5. 新自由主義と倫理規範の変容
5.1 新自由主義の本質と日本への浸透
新自由主義(neoliberalism)とは、市場原理の優位性を強調し、政府の経済介入を最小化しようとする経済思想およびイデオロギーである。フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンに代表されるこの思想は、1980年代のレーガン政権、サッチャー政権下で政策として実行され、その後世界中に拡散した。
日本では、1980年代の中曽根政権による国鉄民営化に始まり、1990年代の金融ビッグバン、小泉政権下での郵政民営化、そして規制緩和の推進を通じて、新自由主義的政策が段階的に導入された。その核心は、「市場メカニズムこそが最も効率的な資源配分を実現する」という信念であり、企業や個人の経済活動への規制を「非効率」として批判し、その撤廃を求める。
5.2 市場至上主義と倫理の矮小化
新自由主義それ自体は、表面的には経済制度に関する議論である。しかし、マイケル・サンデルが『それをお金で買いますか』で論じたように、市場論理の無制限な拡大は、必然的に倫理的・道徳的領域を侵食する。
市場において重要なのは「買い手と売り手の自由な合意」である。両者が合意した取引は、原則として正当化される。しかし、この「合意の自由」という原則を絶対化すると、情報の非対称性、交渉力の格差、認知バイアスの悪用といった問題が看過される。詐欺的な契約でも、「買い手が署名したのだから自己責任」という論理が正当化される。
さらに深刻なのは、この論理が経済活動を超えて社会全体に浸透することである。「騙される方が悪い」「自己防衛できない者は淘汰されて当然」「競争に敗れるのは自己責任」――こうした社会ダーウィニズム的な思考様式が、新自由主義イデオロギーの浸透とともに広がっている。
5.3 「ホモ・エコノミクス」への人間観の変容
新古典派経済学が前提とする「ホモ・エコノミクス(経済人)」という人間モデルは、完全に合理的で、自己利益の最大化のみを追求する存在である。これは本来、経済分析のための抽象的モデルに過ぎなかった。
しかし、新自由主義イデオロギーの浸透に伴い、この「ホモ・エコノミクス」が、単なる分析ツールから「あるべき人間像」へと転化する逆転現象が生じた。「合理的に自己利益を追求すること」が道徳的に肯定され、さらには推奨されるようになる。利他的行動、共感、連帯といった価値は、「非合理的」として軽視される。
フーコーが『生政治の誕生』で論じた「新自由主義的統治性」は、まさにこの人間観の変容を指している。新自由主義は、人々を「企業家的自己」として形成する。自分自身を一つの企業として経営し、人的資本を最大化し、あらゆる人間関係を費用対効果の観点から評価する――そうした主体性が、理想として内面化されるのである。
5.4 「成功者」イメージの変容
新自由主義以前の日本社会において、経済的成功者のイメージは「勤勉・節約・誠実」といった徳目と結びついていた。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じた「世俗的禁欲」の倫理が、高度経済成長期の日本にも通底していた。
しかし新自由主義下では、「いかに効率的に儲けるか」が至上命題となる。勤勉さよりも「抜け目のなさ」、誠実さよりも「戦略的思考」、公正さよりも「勝利」が評価される。「法の隙間を見つけて利益を上げる」ことが、起業家精神として賞賛さえされる。
「人格的に偉大な人」ではなく、「隙間を狙って稼ぐ卑小な人」がロールモデルとなる――この転倒こそが、現代日本社会における倫理的混乱の象徴である。
6. 下部構造と上部構造:マルクス主義的考察
6.1 経済基盤と精神構造の相互作用
カール・マルクスの史的唯物論における古典的命題――「社会の経済的土台(下部構造)が、その法律・政治・イデオロギー(上部構造)を規定する」――は、現代においても一定の説明力を持つ。
新自由主義的な経済制度という下部構造は、それに適合的な上部構造、すなわち法制度、政治システム、そして人々の価値観や倫理観を形成する。規制緩和と市場競争の激化は、「何でもあり」の競争環境を生み出す。その環境において生存し、成功するためには、「法の隙間を突く」「騙される方が悪い」といった倫理観を内面化した主体が有利となる。
かくして、経済システムは、そのシステムの再生産に適合的な人間類型を選択的に育成する。アントニオ・グラムシの「ヘゲモニー」概念を援用すれば、新自由主義は単なる経済政策ではなく、人々の「常識」そのものを再編成する文化的・イデオロギー的プロジェクトなのである。
6.2 技術革新との相乗効果
IT技術という新たな生産力は、新自由主義という生産関係と結合することで、その効果を増幅させる。デジタル・プラットフォーム経済は、従来の労働法制や商取引規制を回避する「シェアリングエコノミー」という名の脱法的ビジネスモデルを生み出した。ギグワーカーは労働者としての保護を受けず、プラットフォーム企業は雇用責任を負わない。
SNSは、「注目経済」という新たな競争空間を創出した。炎上、デマ、扇動といった反社会的コンテンツほど「エンゲージメント」を獲得しやすい。プラットフォーム企業は広告収入を最大化するために、ユーザーの滞在時間を延ばす――たとえそれが社会的分断や心理的健康の悪化をもたらすとしても。
匿名・流動型犯罪集団も、この技術と経済システムの結合が生み出した存在である。暗号化技術、仮想通貨、SNSという技術的インフラと、「効率的に稼げるなら何でもあり」という新自由主義的エートスが融合して、従来にない犯罪形態を可能にしたのである。
6.3 決定論を超えて:主体性と抵抗の可能性
しかし、経済決定論に陥ることは避けなければならない。下部構造が上部構造を規定するとしても、その関係は一方向的・機械的なものではない。人間は単なる経済システムの産物ではなく、システムを批判し、変革する主体でもある。
現に、新自由主義に対する批判的言説は存在し続けている。トマ・ピケティの『21世紀の資本』、デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』、ケイト・レイワースの『ドーナツ経済学』など、市場至上主義に異議を唱える知的潮流は、依然として影響力を持っている。
問題は、こうした批判的思考が、現実の制度変革や倫理的実践にどこまで結実しているかである。
7. 結論と今後の課題
7.1 分析の総括
本論考では、現代日本社会における「法の隙間を突く」行為の増加と倫理観の変容を、新自由主義イデオロギーと技術革新という二つの構造的要因から考察した。
匿名・流動型犯罪集団、詐欺的商法、政治的扇動といった現象は、孤立した病理ではなく、新自由主義的経済システムとデジタル技術が結合して生み出した構造的帰結である。「市場における効率的な利益追求」が最高価値とされ、「法で禁止されていなければ何をしても良い」という極端な法実証主義が常態化し、共感性や社会的責任といった倫理的価値が軽視される――こうした精神構造の変容は、経済制度(下部構造)の変化が上部構造(倫理・価値観)を規定するというマルクス主義的図式によって、ある程度説明可能である。
7.2 本論考の限界
しかし、本論考には重要な限界がある。
第一に、因果関係の実証的検証の欠如である。新自由主義の浸透度、IT技術の使用実態、共感性の水準、脱法的行為の発生率といった諸変数を定量的に測定し、それらの相関関係や因果関係を統計的に検証することは、本論考では行われていない。社会科学における厳密な検証のためには、大規模な社会調査、縦断的データの分析、国際比較研究などが必要となる。
第二に、歴史的視点の不足である。本論考は「現代」の問題として論じているが、果たして「法の隙間を突く」行為や倫理観の動揺は、本当に現代特有の現象なのか。江戸時代の悪徳商人、明治期の政商、戦後の闇市など、歴史上のあらゆる時代に、同様の現象は存在したのではないか。もしそうであるならば、「新自由主義と技術革新」という説明は、現象の一側面を捉えているに過ぎないことになる。
第三に、代替的説明の検討不足である。本論考は主に経済構造的要因に焦点を当てたが、他にも様々な説明が可能である。例えば、教育制度の変化(道徳教育の軽視、競争主義の強化)、家族構造の変容(核家族化、地域共同体の解体)、メディア環境の変化(テレビからネットへ、マスメディアからソーシャルメディアへ)、さらには生物学的要因(脳科学、遺伝学)まで、多様な観点からの分析が求められる。
7.3 今後の研究課題
上記の限界を踏まえ、今後の研究課題として以下を提起したい。
(1)実証研究の必要性:社会心理学的手法を用いた共感性の測定、経済学的手法を用いた脱法的行為の定量化、社会学的手法を用いた価値観の変遷の追跡など、学際的な実証研究が求められる。
(2)国際比較研究:日本以外の国々、特に新自由主義化の程度やIT技術の普及度が異なる諸国との比較によって、本論考で提示した仮説の妥当性を検証する必要がある。
(3)歴史社会学的研究:明治維新以降の日本社会における「法と倫理」の関係の変遷を、資料に基づいて詳細に追跡することで、現代の特殊性と普遍性を明らかにする。
(4)規範的考察の深化:単なる現状分析にとどまらず、「いかにあるべきか」という規範的・政策的提言へと議論を発展させる必要がある。法制度の改革、教育内容の見直し、企業倫理の再構築、デジタルプラットフォームの規制など、具体的な処方箋の検討が求められる。
7.4 最終的考察
冒頭で提起した問いに戻ろう。「なぜ平気で人を騙せるのか」「なぜそれで平気なのか」「なぜそれほどまでに共感性がないのか」――これらの問いに対する単一の、決定的な答えは存在しない。
人間の倫理観は、生物学的基盤、幼少期の養育環境、教育経験、対人関係、社会制度、経済システム、技術環境、文化的価値観など、無数の要因が複雑に絡み合って形成される。新自由主義も技術革新も、その多様な要因の中の一つに過ぎない。
しかし、それらが重要な要因であることも確かである。経済システムは、人々の行動を直接的に制約し、インセンティブを与え、成功者のモデルを提示する。技術は、人々の相互作用の様式を変え、情報環境を再編し、新たな可能性と危険性をもたらす。
我々が直面しているのは、単なる「一部の悪人」の問題ではなく、社会システムそのものが生み出す構造的問題である。したがって、その解決も、個人の道徳心に訴えるだけでは不十分であり、システムそのものの変革を視野に入れなければならない。
「法の隙間」を完全に塞ぐことはできない。しかし、その隙間を埋める倫理的・社会的規範を再構築することは可能である。市場原理主義に対抗する連帯の倫理、効率至上主義に対抗するケアの倫理、個人主義に対抗する共同体の価値――こうした対抗的価値を、教育を通じて、文化を通じて、制度を通じて、育んでいくこと。それが、現代日本社会に課された課題である。
その課題に取り組むことなくしては、「匿名・流動型犯罪集団」は摘発されても次々と再生し、「詐欺的商法」は規制されても形を変えて蔓延し続けるであろう。法執行の強化だけでは、もぐら叩きに終わる。必要なのは、土壌そのものを変えることである。
参考文献
Baron-Cohen, Simon (2003) The Essential Difference: Men, Women and the Extreme Male Brain, London: Penguin.
Foucault, Michel (2008) The Birth of Biopolitics: Lectures at the Collège de France 1978-1979, New York: Palgrave Macmillan.
Gramsci, Antonio (1971) Selections from the Prison Notebooks, New York: International Publishers.
Hart, H.L.A. (1961) The Concept of Law, Oxford: Oxford University Press.
Milgram, Stanley (1974) Obedience to Authority: An Experimental View, New York: Harper & Row.
Piketty, Thomas (2014) Capital in the Twenty-First Century, Cambridge: Harvard University Press.
Sandel, Michael (2012) What Money Can’t Buy: The Moral Limits of Markets, New York: Farrar, Straus and Giroux.
Twenge, Jean M. (2017) iGen: Why Today’s Super-Connected Kids Are Growing Up Less Rebellious, More Tolerant, Less Happy, New York: Atria Books.
Weber, Max (1905) The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism, London: Routledge.
グレーバー、デヴィッド(2020)『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店。
警察庁(2023)『令和5年における組織犯罪の情勢』。
レイワース、ケイト(2018)『ドーナツ経済学が世界を救う――人類と地球のためのパラダイムシフト』河出書房新社。
