感情という名の津波――支配の技術とその限界について
一
人間が、生物学的な意味において「群生動物」であるという事実は、現代においてしばしば忘れられがちな前提である。われわれは、個々の自律的な理性を持つ存在として振る舞うことを期待されているが、その生存の根底を支えているのは、極めて原始的な共同体への適応能力である。その適応のための最も有力な装置が、「感情」と呼ばれるものにほかならない。
感情とは、単なる精神の装飾ではなく、個体を群れの中に繋ぎ止め、共通の危機に対して即座に反応させるための、いわば生物学的な信号系である。恐怖は群れを一斉に逃走させ、怒りは群れを外敵への攻撃へと駆り立てる。そこには論理的な推論が介在する余地はない。というのも、捕食者の前で論理を組み立てる余裕を持つ個体は、進化の過程で淘汰されてきたからである。感情の機能は、何よりもまず「生存」に直結した、合理的かつ非合理なプログラムであった。
二
しかし、人類の歴史が「文明」の段階に入ると、この生存のための装置は、別の目的のために転用されることになった。すなわち、他者を統治し、大衆を一定の方向へと動員するための「支配の道具」としての変質である。
古来、優れた統治者は、理性によって人々を説得することの困難さを知っていた。理性は個別の差異を生むが、感情は均質的な集団を生む。ナショナリズムであれ、宗教的情熱であれ、あるいは現代におけるポピュリズムであれ、支配の技術とは、常にこの「感情の増幅器」をいかに操作するかにかかっている。
他者を支配しようとする者は、大衆の抱く不安を煽り、あるいは共通の敵に対する憎悪を組織化する。そこでは感情は、精緻に計算された計略の一部となる。言葉は意味を伝えるためではなく、特定の感情的な反応を引き起こすための「刺激」として機能する。このとき、感情は生存の武器から、管理の技術へとその姿を変えるのである。
三
ところが、ここに一つの重大な逆説が生じる。支配者が道具として使い始めた感情は、やがて支配者自身のコントロールを離れ、独自の運動法則を持ち始めるということだ。
感情を煽り立て、巨大な集団のエネルギーを一点に集中させた者は、自らがそのエネルギーの頂点に立っていると錯覚する。しかし、ひとたび沸騰した感情の海は、それを引き起こした個人の意図を超えて荒れ狂う。それはまさに「津波」のようなものである。
津波が押し寄せるとき、それをせき止めようとする防潮堤も、あるいはその波を起こしたはずの呪術師も、等しく濁流に飲み込まれる。歴史を振り返れば、大衆の熱狂を利用して権力を掌握した独裁者が、自らが生み出したその熱狂の圧力によって退路を断たれ、破滅へと突き進まざるを得なくなった例は数多い。
支配者が感情を支配しているのではない。支配者もまた、自らが煽動した感情という環境の一部となり、その波に翻弄される一箇の浮標に過ぎなくなるのである。
四
われわれが直視すべきは、この人間の「感情の自動機械」としての側面である。現代社会において、情報技術の発展は感情の伝播速度を光速にまで高めた。かつて数ヶ月を要した感情の共有は、今や数秒で完了する。支配の道具としての感情は、かつてないほど鋭利で強力なものとなったが、それゆえにその「津波」としての破壊力もまた、制御不能なまでに増大している。
では、この感情の氾濫に対して、われわれはいかなる態度をとるべきか。
私は、感情を否定せよと言うのではない。それは不可能であるし、生物としての自己否定に等しい。必要なのは、自らの中にある、あるいは社会の中に渦巻く感情を、あたかも医師が病状を観察するように、一歩引いた視点から「眺め観察する」知性である。
感情が「道具」として使われているとき、その背後にある論理を見抜くこと。そして、自らが飲み込まれようとしている波が、どのような地形によって、いかなる力学で生じたのかを分析すること。それは「冷徹」と呼ばれるかもしれないが、熱狂の渦中で溺死しないための唯一の呼吸法ではないだろうか。
五
人間は群生動物であり続けるだろう。そして感情は、今後もわれわれの生存を支え、同時にわれわれを脅かす力であり続けるだろう。
支配者は自らの手元にある「感情」という劇薬の危険性を過小評価してはならないし、被支配者は自らの胸の内にある「熱きもの」が、誰かの設計図に基づいたものである可能性を疑わねばならない。
津波が去った後の荒野に立つとき、われわれに残されているのは、泥を拭い、再び冷静な観察を始める知性の断片だけである。その断片を拾い集めることこそが、人間の尊厳と呼ばれるものの、ささやかな、しかし確かな出発点になる。
