言葉の空洞化と密室の決断――「存立危機事態」を巡る省察


言葉の空洞化と密室の決断――「存立危機事態」を巡る省察

ここも密室である。

 政治の言葉が、現実を説明するためではなく、現実を覆い隠すために使われ始めるとき、その社会の民主主義は深刻な機能不全に陥っていると言わざるを得ない。
 今日の木原官房長官による、ホルムズ海峡封鎖を巡る記者会見の記録を読みながら、私はかつてこの国が陥った、言葉と現実の解離という病理を思わずにはいられなかった。

 政府は、現在の事態が「存立危機事態」や「重要影響事態」に該当するか否かについて、「個別具体的な状況に即して、総合的に判断する」と繰り返している。一見すれば、それは慎重な構えを装った、妥当な法解釈の言明に見えるかもしれない。しかし、その言葉の裏側に潜んでいるのは、判断の基準を無限に伸縮させ、一切の客観的な検証を拒絶しようとする「密室の意思」である。

 ここで問題とすべきは、二つの「空白」である。
 第一の空白は、メディアの側にある。新聞各紙は、政府の発表をなぞるように「存立危機事態」の定義や法的な条件を注釈として付け加えることに汲々としている。しかし、本来ジャーナリズムが果たすべき役割は、法の条文を解説することではなく、政府の「判断」そのものの妥当性を問い、検証の俎上に載せることにあるはずだ。

 政府が「現時点では該当しない」と言えばそれをそのまま報じ、「総合的に判断する」と言えばその曖昧さを是認する。これでは、新聞は権力の発信を中継する「官報」の役割を果たしているに過ぎない。民主主義のプロセスとは、権力が行う判断に対して、主権者が常に「なぜか」という問いを突きつけ、納得のいく説明を求める過程を指す。その仲介役を放棄したメディアは、自ら民主主義の回路を遮断していると言えるだろう。

 第二の空白は、より深刻な「制度的なブラックボックス」の問題である。
 「存立危機事態」の認定は、国民の生命や自由を根底から覆す危険がある場合になされるという。しかし、いかなる情報に基づき、どのような論理でその結論に達したのかというプロセスは、常に「軍事機密」や「安全保障上の秘匿性」という霧の向こう側に隠される。

 権力者はしばしば、国家の安全を担保にするという名目で、判断の根拠を独占しようとする。それは換言すれば、主権者による事後の検証を一切認めないという宣言に等しい。数年後に情報が公開され、その判断が誤りであったことが判明したとしても、その時にはすでに、武力行使という引き返せない既成事実が歴史を塗り替えているだろう。
 厳密な事後検討の仕組みも、情報の開示予定も持たない「独断」のシステム。これを「法の支配」と呼ぶことはできない。それはむしろ、言葉の定義を恣意的に操作できる者による「人治」への回帰である。

 歴史を振り返れば、人間が集団的な情熱に駆られ、破滅的な戦争へと突き進むとき、常にその先頭には「曖昧な言葉」と「検証を拒む権力」があった。
 「日本の平和と繁栄を確保するため」「万全を期していくのは当然だ」といった、誰からも反対されない抽象的な美辞麗句は、具体的な危機の分析から目を逸らさせるための麻酔剤として機能する。

 ホルムズ海峡の封鎖が、具体的に日本のエネルギー供給にどのような影響を及ぼし、それがなぜ他国への武力攻撃への加担を正当化するのか。そこには精緻な因果関係の証明が必要なはずである。しかし、政府の言葉にはその具体的努力が欠如しており、ただ「事態を総合的に判断する」という全能的な構えだけが強調されている。これは、論理の放棄であると同時に、主権者に対する知的な不誠実さにほかならない。

 われわれが今、直視しなければならないのは、この「密室の中で生き延びる」政治のスタイルが、いつの間にかこの国の新しい標準(スタンダード)となりつつあるという事実だ。
 認識を拒み、反省を拒み、不都合な真実は機密の壁の向こうへ埋却する。この構造は、かつての軍事独裁国家のそれと、本質においてどこが違うのだろうか。

 民主主義とは、光を当てる作業である。権力が隠そうとする場所、言葉を濁している場所に、絶えず問いという光を送り続けること。
 新聞がその役割を果たさないのであれば、われわれ個々の市民が、その「判断の内容」を問い続けなければならない。政府の独断を許容し、思考を停止することは、やがて自らの、そして次世代の運命を、名もなき密室の決断に委ねることを意味する。
 今回のことは結果としては問題ないが、プロセスとしては大いに問題である。そして今回だけではない、「存立危機事態」に関することについては、常に、原理的に、民主主義的過程に問題が生じる仕組みを作ってしまっている。それは大きな過失である。憲法が国家に要請している民主主義の在り方を逸脱している。

 静謐な書斎であれ、騒がしい街頭であれ、われわれに課せられているのは、言葉の定義を守り抜くことである。「存立危機事態」という言葉が、誰かの政治的な野心や、盲目的な同盟関係の道具として消費されることを許してはならない。言葉がその真実の重みを取り戻すまで、われわれは問いを止めてはならないのだ。

(了)

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