資本主義と民主主義と軍国主義の関係を考察していた。
概略を言えば、
民社主義は一国内のものだ。
資本主義は急速にグローバル化している。
軍国主義は、最近では国家と国家の戦争になっている。
このように、統治の範囲にずれがあるのでうまくいかない面もあるらしい。
EUの実績はあるけれども、まだ完成の領域には至っていない。
多民族を統治する点では中国やロシアが当てはまるが、統治の手腕として完成しているとはいいがたい。
民主主義と独裁。
資本主義と福祉国家。(昔は社会主義とか共産主義だった。しかし現在では、税金をたくさん徴収して、困っている人に分配する福祉国家というビジョンだ。実際には中抜きもあり、最終的には富裕な人にさらに補助金を出したりしてという面もある。)
軍国主義と平和主義。
どの組み合わせもあるだろう。民主主義と福祉国家と平和主義がいいですね。武器を買うより、高齢者施設の職員の給料をあげたほうがみんな幸せになるでしよう。明白。
そんなにも簡単なことがなぜかできない。
民主主義は無駄が多くて時間がかかる。ろくなことにならない。しかし、民主主義以外だともっと悪い。
民族を二分割して、隣国同士で、資本主義と社会主義を実践した。東西と南北があった。
東西は統一されて、南北は分かれたまま。北は核兵器を持つに至った。
しかし、その状況を考えてみて、隣の国がどうなっているかを自分の国と比較するから、いつまでも苦しい。
だから、世界統一政府ができれば、もう比較しなくなるだろうか。
貿易で、為替とか関税とか言わないで、税金を徴収して、各地に分けたほうが、統治技術としてはうまくいくのではないか。
簡単な話、今日本では、神奈川県と埼玉県の総GDPとか一人当たりのGDPとか神経質に比較するわけでもない。(そもそも国家間のGDPを比較してどうしようというのだろう。高度成長期には、お祭り気分にさせてもっと働かせるためによい数字だったのだろう。)格差はあるけれども、あまり報道しない。県と県で為替レートがあったり、関税があったりするわけでもない。
これは、統治体制の問題だけれども、その根本には、交通、通信、言語、マスコミ、各方面で、今人間の意識は、国単位というところまできた。ずっと昔は村単位だっただろう、町単位になり、郡になり、藩になり、などと、人間の集団意識が拡大していった。
情報の発達が決定的だろう。今後も、情報通信が発達していけば、世界の一体感はますます強くなる。
そう思われていたが、最近は西欧でも極右の人たちが、再度地域に閉じこもりたがっているようだ。
EUとして拡大する方向と、自分の見て知っている地域に閉じこもる方向が、両方、強くなっている。
だから複雑になる。
世界政府としては、世界警察と世界軍と世界情報組織を持つのだろうし、その維持には膨大な税金が必要になる。だから、その点でもう実現不可能だと思うが。まあ、それでも、新エネルギーとか発見されて、世界政府がそれを独占し、それを権力と資金の源泉にすればという夢想もある。その場合、隣と比較する必要がなくなるのではないか。
何となく比較して、あっちがいいなと思えば、引っ越ししてもいいのだし。
ふるさと納税は、返戻金目当てに郷土を裏切る悪い制度だという人もいるが、自分の納める税金の使い道を、きわめて一部ではあるが、指定できる点ではよい制度だ。返礼品が気になるなら、返礼品はやめてもいいが、自分の住民税を、どの地域の何の目的のお金として納税すると指定できるとしたら、よいことだ。
いい加減なことを書くと、岩手の森林保護とか、沖縄の守礼の門の再建とか、秋田沖の風力発電にとか。国会のIT化に回してもいいし、介護の職員の給与アップに使ってもよい。そのように指定できるならとても良い。
本来は、納税と、予算の国会審議はそういうことの延長だ。しかし現在は個人の意識とは全く切り離されている。選挙で自民党支部からいくらか現金をもらう。それが民主主義でそれが投票。
予算審議の場面で、国民の意識などは操作の対象であって、主権者などではない。軍事費のために増税されても、文句も言わない。文句を言ったとしても、支配権力の予想の範囲内。
統治範囲のずれという診断は、現代の政治的矛盾の核心を突いている。民主主義が一国内に閉じ、資本主義がグローバルに展開し、軍事力が国家間の境界で作動するという三層の非対称性は、まさに我々が日々目撃している混乱の構造そのものである。
この診断が鋭いのは、問題を善悪や理念の対立ではなく、純粋に「範囲の不一致」として捉えている点だ。民主主義が悪いのではない。資本主義が悪いのでもない。ただ、それぞれが作動する空間的・時間的スケールが異なるために、相互に干渉し、矛盾を生じさせる。これは構造の問題である。
資本主義のグローバル化は、もはや後戻りできない段階に達している。企業は国境を越えて資源を調達し、労働力を配置し、利潤を移動させる。しかし民主主義の単位は依然として国民国家に留まっている。すると必然的に、資本の論理が民主的統制の外に逃れていく。租税回避、規制の裁定取引、労働基準の切り下げ競争——これらはすべて、統治範囲のずれが生む症候である。
他方で、軍事力は依然として国家の専有物である。グローバル化した資本を守るために、ローカルな軍事力が動員される。しかしその軍事力の行使を決定するのは、やはりローカルな民主主義の手続きである。イラク戦争を想起すればよい。グローバルな石油市場の安定という資本の論理が、アメリカという一国の民主的手続き(それがどれほど歪んでいたにせよ)を経て、軍事行動に転化した。この過程で、統治範囲の三重のずれが露呈した。
世界政府という構想は、この構造的矛盾への一つの理論的応答である。統治範囲を資本主義のグローバル性に合わせれば、ずれは解消される。だが貴兄が指摘するように、世界政府は実現不可能に近い。なぜなら、それは単に制度設計の問題ではなく、人間の集団意識の拡大速度の問題だからである。
村から町へ、町から藩へ、藩から国へという意識の拡大は、数百年から数千年の時間をかけて進行した。その過程で言語が統一され、交通網が整備され、共通の記憶と物語が形成された。しかし国から世界へという跳躍は、質的に異なる困難を抱えている。世界には共通言語がなく、共通の歴史認識もなく、共通の敵もいない(かつて冷戦期には共産主義vs資本主義という対立が、それぞれの陣営内部の一体感を醸成したが)。
EUの試みは示唆的である。共通通貨と共通市場を先行させ、政治統合を後から追いかけるという戦略は、ある程度の成功を収めた。しかし2010年代以降の難民危機、ブレグジット、極右政党の台頭は、この戦略の限界を露呈した。経済的統合は進んでも、人々の帰属意識は依然として国民国家に留まっている。いや、むしろグローバル化への反動として、より狭い地域への退行が起きている。
ここに逆説がある。情報技術の発達は、理論的には世界の一体感を強めるはずだった。インターネットは国境を無化し、SNSは地球の裏側の人々とリアルタイムで繋がることを可能にした。しかし実際に起きたのは、むしろ分断の加速である。アルゴリズムは人々を同質的な集団に閉じ込め、フィルターバブルは認識の共有を妨げる。技術的な繋がりの増大が、必ずしも意識の統合を生まないという事実は、世界政府構想の困難さを物語っている。
ふるさと納税への言及は、この文脈で興味深い。それは統治範囲のずれへの、ささやかだが実践的な応答である。納税者に税の使途の一部選択権を与えることで、主権の一部を国家から個人へ再配置する。これは民主主義の単位を、国家から個人へと縮小させる試みとも読める。
本来、民主主義における予算審議は、まさにこの「税の使途の決定」という主権行為そのものであるはずだ。しかし現実には、それは専門家と官僚と政治家の閉じた世界で行われ、国民の意識とは切り離されている。ふるさと納税が示唆するのは、この主権の希薄化への抵抗であり、あるいは主権の再発見の試みである。
医療の領域でも、同様の構造的矛盾が観察される。感染症はグローバルに拡散するが、医療提供体制は国内で閉じている。製薬企業は世界市場で活動するが、薬価は各国の保険制度で決定される。医療倫理の基準は国によって異なるが、臨床研究は国際的に行われる。COVID-19パンデミックは、この矛盾を極限まで押し進めた。ウイルスは国境を無視して広がったが、ワクチン配分は国家間の力関係で決定され、医療資源の配分は各国の政治判断に委ねられた。
結局のところ、統治範囲のずれという問題は、人類が未だ解決していない根本的課題である。我々は、グローバル化した世界に生きながら、依然としてローカルな統治機構しか持っていない。この非対称性がもたらす緊張を、どう管理するか。世界政府という理想は遠く、しかし国民国家という枠組みは既に機能不全に陥りつつある。
おそらく答えは、単一の解ではなく、複数のスケールでの統治の重層化にある。EUのような地域統合、国民国家、地方自治体、そして個人——これらが、それぞれ異なる範囲で、異なる問題に対処する。ふるさと納税が示唆するのは、まさにこの重層的統治における個人の役割の再定義かもしれない。完璧な解決ではないが、構造的矛盾を生きるための現実的な知恵として。
