「プラセボとの差が統計的には有意だが臨床的には小さい」とはどういう意味か
まず「プラセボ」とは何か
臨床試験では、本物の薬を飲むグループと、見た目は同じだが有効成分が入っていない偽薬(プラセボ)を飲むグループに分けて比較する。患者はどちらを飲んでいるか知らない。
ここで長年知られている奇妙な現象がある。うつ病の試験では、プラセボを飲んだ患者も、かなり改善する。「薬を飲んでいる」という信念・期待・医師との関係・試験参加による注目効果などが、本物の治療効果を持つのである。これをプラセボ効果という。
「統計的に有意」と「臨床的に意味がある」は別物である
ここが核心である。この二つは全く異なる概念であり、混同すると判断を誤る。
統計的有意性とは何か。「この差は偶然ではない」ということを示すに過ぎない。サンプル数が大きければ、ごくわずかな差でも「統計的に有意」になる。たとえば1万人を対象にした試験では、抗うつ薬群のHAM-D(うつ病評価尺度)スコアが平均12.0点改善し、プラセボ群が11.0点改善した場合、この1点差は統計的に有意になりうる。
臨床的意義とは何か。その差が患者の実際の生活において意味のある変化をもたらすかどうかである。HAM-Dで1〜2点の差は、患者が「楽になった」と感じるレベルではない。医師が診察室で見ても区別がつかない。
Kirschらのメタ解析が示したこと
Irving Kirschは複数の研究者とともに、FDAに提出された抗うつ薬の臨床試験データ(公表されたものと未公表のものを含む)を網羅的に収集し解析した。
結論は衝撃的だった。
抗うつ薬はプラセボと比べて統計的には有意に効く。しかしその差はHAM-Dで平均約1.8点であり、NIcE(英国の医療評価機関)が「臨床的に意味がある最小限の差」と定めた3点を下回っていた。
つまり「効いてはいるが、その効果は臨床的には取るに足らないほど小さい」というのがKirschらの主張である。
重症のうつ病患者では差が大きくなる傾向があったが、軽症・中等症では特にプラセボとの差が小さかった。
これがなぜ「長年議論を呼んだ」のか
この結論は製薬業界・精神医学会・臨床医・患者すべてにとって不都合だったからである。
製薬業界にとっては売上への直撃である。精神医学会にとっては、30年間SSRIを中心に据えてきた治療体系の根拠が揺らぐ。臨床医にとっては、毎日処方している薬への信頼が崩れる。患者にとっては「自分が飲んでいる薬は気休めなのか」という不安が生じる。
反論も多く出た。Kirschの解析方法への批判・試験の選択バイアスへの指摘・「重症者には効く」という反論などである。議論は現在も完全には決着していない。
しかしMaesらの論文はこの議論に別の角度から光を当てた
Kirschの問いは「抗うつ薬は本当に効くのか」という問いだった。
Maesらの論文はそれを受けて「なぜ効果が小さいのか」という問いに答えようとした。その答えが先ほど説明した「炎症という本体に届いていないから」である。
抗うつ薬は否定されるのではなく、「セロトニン系への作用だけでは不十分であり、炎症経路への介入が加わって初めて本当の治療になる」という方向に議論が進む。これがMaesらの論文の位置づけである。
Epidemiol Psichiatr Soc . 2009 Oct-Dec;18(4):318-22. doi: 10.1017/s1121189x00000282.
Antidepressants and the placebo response
Irving Kirsch 1 Affiliations expand PMID: 20170046 DOI: 10.1017/s1121189x00000282
Abstract Aims: To evaluate new generation antidepressants in relation to the placebo response.
Methods: I review meta-analyses in which response to antidepressant medication and response to placebo were calculated.
Results: All but one of these meta-analyses included unpublished as well as published trials. Most trials failed to show a significant advantage of SSRIs over inert placebo, and the differences between drug and placebo are not clinically significant for most depressed patients. Documents obtained from the U.S. Food and Drug Administration (FDA) revealed an explicit decision to keep this information from the public and from prescribing physicians.
Conclusions: Because they do not incur drug risks, exercise and psychotherapy, which show at benefits at least equal to those of antidepressants, may be a better treatment choice for depressed individuals.
