踏み絵と政治

踏み絵と政治—ある選択の教訓

政治において原則を守ることと、権力を得ることは、しばしば相容れない。二〇二六年の衆議院選挙で、立憲民主党と公明党が結成した「中道改革連合」は、この古くて新しいジレンマを、きわめて象徴的な形で示した。

立憲民主党は、安保法制違憲論と原発廃止という結党以来の基本方針を撤回し、公明党との連合を選んだ。その理由は明快である。政権交代を実現し、せめて企業献金禁止だけでも実現したい。他の政策は自民党と同じでもよい、とにかく「政治とカネ」の問題だけは正したい、というのである。

これは江戸時代の隠れキリシタンが踏み絵を踏むようなものだ、と論者は言った。表面的には信仰を否定しても、内心は保持している。今回は企業献金禁止という一点に絞り、選挙に勝てば後は何とかなる—そういう戦術的判断である。論理的には、筋が通っている。「企業献金を禁止した自民党」の方が、「禁止しない自民党」より望ましい。ならば原則を曲げてでも政権を取り、この一点を実現する価値はあるのではないか。そのような考えもあった。現実には、企業献金の争点は急速に消された。

そして結果は中道の惨敗であった。既存の支持者は、党の存在理由そのものが失われたと感じて離反した。新たな支持層は、自民党と政策が同じなら経験豊富な本家の方がよい、と考えた。企業献金禁止という公約は、抽象的すぎて生活実感に響かなかった。連合(労働組合)の支援を受ける立憲民主党が企業献金を批判しても、「利益集団の乗り換えに過ぎない」と見なされた。

振り返れば、有権者は思いのほか敏感である。打算的な方針転換を見抜き、アイデンティティの喪失を感じ取る。政治は誠実性を証明する場所ではないかもしれないが、誠実性を完全に失った瞬間、政治的に死ぬということはある。自民党が公約を破っても罰されないのは、そもそも原則を期待されていないからだ。しかし立憲民主党は、「原則を守る政党」として支持されていた。その原則を捨てれば、何も残らない。

興味深いのは、この選挙戦術が倫理的に間違っていただけでなく、戦術としても間違っていたという二重の失敗である。しかし、では原則を貫けば勝てたのか、と問われれば、それも分からない。おそらく別の理由で負けただろう。対米従属構造、自民党の組織力、メディアの非対称性—野党が直面する構造的制約は、個別の戦術では乗り越えがたい。

結局、この失敗が教えるのは、政治における時間の問題である。企業献金禁止の効果は十年、二十年の単位で現れる。しかし選挙は四年ごとに来る。長期的に正しい政策が、短期的に敗北をもたらすなら、どうすればいいのか。

一つの答えは、野党の役割を「政権を取ること」だけに求めないことかもしれない。少数派の価値観を代表し、権力を監視し、長期的に社会の価値観を変えてゆく—そういう地道な仕事にも、意味がある。踏み絵を踏まずに殉教した者たちが、後世に何かを残したように。

ただし、これは政治家にとっては苦しい選択である。政策を実現したいなら権力が要る。しかし権力を得るために原則を捨てれば、実現したい政策も失われる。このジレンマに、簡単な答はない。せめて言えるのは、踏み絵を用意しているのは誰か、なぜ私たちはそれを踏まざるを得ないのか—その問いを問い続けることが、構造を変える第一歩だということである。

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