ナボコフにとって、ふつう「初読」と呼ばれる段階は、「ある絵画作品が目に入る一瞬の出来事」に相当します。そしてナボコフにとっての読書=再読は、ある絵画作品を目にとめて、よくよく眺めるという段階に相当しているということになります。
絵画は何度も繰り返して見る。体験が欲しいからだ。
音楽は何度も繰り返して聞く、または演奏する。自分の予想と照合して体験したいからだ。
人とは何度も会って、何度も話をする。それも体験である。
では、書物はどれだけ再読するだろうか。
文学的体験を考えるなら、再読する。それは読書が体験になっている場面である。
しかし、単なる知識の問題や、要約できる内容についてなら、一度で十分ということになる。
「要約できない何かを体験する」ならば、再読は適切てある。
音楽は繰り返し聞く。聞いている中で、演奏している自分を経験するようになる。
絵画も似ている。描かれたプロセスを体験するように見れば、味わいが深い。
文章も、書かれたプロセスや、脳内の発火を予想して読むことは楽しい。それには再読が適している。
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書物は、著者が意図したもの以上のものであることがある。
初めて読む時も、著者の意図は、たぶん分かることが多いかもしれない。理解が届かないこともあるだろうけれども、それは各人の成長段階や興味の段階による。
しかし、著者が意図していない部分の輝きについては、再読が役に立つ。
何が書かれているか、何が書かれていないか、何がにじみ出ているか、いずれも興味深い。
著者が意図せず伝えてしまっていることを、読み解く、創造的に感受する、そのことは読者と著者の共同作業である。
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再読することは、自分の変化を知ることでもある。
初読の時、読者である自分の世界モデルと著者の世界モデルの誤差を知る。
再読の時、初読の時の世界モデルの誤差が、いま、どのようになっているか、知ることができる。
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読書していて、著者の内的リズムと同調して、これだ、と思うことがある。
飛行機が滑走路を滑り、離陸する瞬間の様な、浮遊感、地面を離れる瞬間の体験、そのような体験に導かれることがある。
それは著者が意図したことではないように思うし、翻訳者が意図したことでもないだろうと思う。技術が可能にしているのではない。
読者と著者の何か不思議なシンクロが起こっていると思う。
そのシンクロのためになら再読したい。
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しかしそのシンクロ体験を求めての再読で、もうそれが得られないこともある。
再現可能な体験でないこともある。
それは自分が変わってしまったからだ。
そのことを確認し、昔の自分を懐かしんだりする。
