トラウマの解決

人間は、単純化して言えば、DNAセットを授けられ、それぞれ特定の成育環境で成育され、大人になる。大人になった後も世界を学び続ける。
その結果として、人間について、それぞれの個人はかなり似ているという説と、かなり違うという説が成立することになる。

かなり似ているという説は当然のことで、たいていは手が二本あり、鼻が一つあり、耳は二つで、似ている。
啓蒙的思想の伝統からも、人間の共通性を強調するほうが人間主義的で評判がよい。表向きの説はたいてい、人間はかなり似ているというものになる。
選挙の投票で人間はみな平等に一票であるなどというのも、こうした思想の延長にあるだろう。

それはそれでよいことだ。高校生まではそのように教えていたらよいと思う。

しかし現実社会では様子が異なる。人間はかなり違うという説が重みをもつ。人間はだいたい同じであるという説を信じているなら幸せな人であって人間の暗黒部分にあまり接触する必要のない人であったのだろうと思う。

仕事により立場により、人間の暗黒部分に接する必要のある人たちもいて、その人たちは、人間はあまりに違うと思い、さらには逆に、暗黒部分で人間はみな似ているという見解にも至る。

人間は内部に公正の感覚や利他主義的感覚を持っていて、同時に利己主義的感覚も持っている。人間は両方を持っていて、場面に応じて使い分けているだけである。

警察関係や法律関係で長い間仕事をしていれば、人間の暗黒部分に多く付き合うことになる。
人間の暗黒面に触れることの少ない仕事を選んだ方が幸せな人生ではないかとの考え方もあるだろう。

しかし敢えてそのような仕事を選択する人もいるわけで、知らなかっただけなのか、知っていてなお選んだのか、人により違うだろう。

深刻なトラウマを経験して、そのような場面は二度と経験したくないはずなのに、どういうわけか、危険な方向を選んでしまう人がいて、不思議である。それを説明しようとして、フロイトはタナトスを言った。いまでは違うような学説が強いのだが、いずれにしても不思議である。
危険な泥沼であることは承知としてるが、その危険と泥沼が、本人にとっては慣れた、よく知っている状況であるから、選択してしまう。未知の状況よりも、既知の危険・泥沼を選ぶのだという説で、なんだか納得しにくいが、そういうものらしい。

脳の回路に道筋がついているからその方向に引っ張られる。別の道を選択するとすれば、新しく神経の結合を作らなければならないので難しい。

映画や小説をトラウマ物語として見れば、みんなそのようにも思えてくる。解決はいつもあるわけではない。無理をして解決しているものもある。まったく反・解決的なものもある。トラウマが発生することは普遍的である。繰り返すことも普遍的である。トラウマが解決することは難しく、脚本家もどうしたらよいのか分からないのだろう。しかし、解決がつかないままで、トラウマのままで提示することで観客は涙を流すので、それで十分によい脚本と言えるのだろう。

そんなあたりのことを考えても、トラウマは解決がつかないものなのだろうと思う。

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