・いじめの4層構造
1.被害者
2.加害者
3.観衆・・・まわりで面白がる人たち・・・加害者の心理的ハードルを下げる。エスカレートを招く。観衆にならないこと
4.傍観者・・・見てみぬふりをする人たち・・・できれば、小さくてよいからNOのサインを出す。
・いじめなのかどうか
1.友達からDVDを借りた。そのDVDに傷を付けて返した。その子は仲間外れにされた。
この場合は、いじめなのか。もっと別の良い解決方法があるのか。
2.クラス対抗の合唱コンクールのために練習することになった。クラス全員でやる朝練に毎回遅刻する子がいて、いじめられた。
この場合も、圧力をかけるとして別の方法はないか。
また、集団の利益に反する個人を集団としてどう扱うか。個人の事情や個人の尊厳はどう扱えばよいか。
最後の合唱コンクールの話は、集団の意思決定と、個人の基本的人権・自由の問題とも考えられる。
集団で決めたことなら、反対する個人を服従させることができるのか。どこまで服従させることができるのか。限界点はどこか。
それはリベラリズムの歴史である。
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トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で、アメリカという新しい民主社会を観察しながら、デモクラシーが持つ根本的な危険性を指摘しました。それは少数派の権利が、多数派の意志によって圧殺される可能性——「多数派の専制(tyranny of the majority)」です。
トクヴィルにとって、デモクラシーは単なる制度ではなく、平等化に向かう不可逆的な社会的潮流でした。しかしその潮流は、個人の自由を保障するとは限らない。むしろ多数派の同調圧力・画一化・個人の埋没という新しい形の専制を生み出す可能性がある。
ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で、この問題に正面から取り組みました。ミルの中心的な問いは「社会が個人に対してどこまで権力を行使してよいか」であり、これはデモクラシーの問い(誰が統治するか)とは異なる、純粋にリベラルな問いです。
ミルのハーム原理——他者に害を与えない限り、個人は自分の生き方を自由に選べる——は、たとえ民主的多数派が望んだとしても侵害してはならない個人の領域を画定する試みでした。
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というような歴史的な背景がある。
ジョン・ロックが決定的です。『統治二論』でロックは、すべての人間が生命・自由・財産への自然権を持つと主張しました。政府の正統性は、この自然権を保護することにある。統治者がこの権利を侵害する時、人民には抵抗する権利がある。
つまり、合唱コンクールの朝練に遅刻する人もいるわけで、その人にいじめてもよいような正当性は、多数者にはないわけです。民主的多数派は朝練に懸命になるでしょうが、そうならない、なりたくない人を認めることも、「他者に害を与えない限りは、個人は自分の生き方を自由に選べる」という原則を守る原則から、正しいと思われます。
朝練なんて、やりたい人だけでやればいいわけで、強制するようなものではない。
強制していいのは、納税義務、刑法・民法の遵守、親が子供に教育を受けさせる義務、などでしょう。それは法律で明確に書かれたことだ。それ以外は、他人の迷惑にならない限りは自由です。「迷惑」の限度はきちんと議論して明文化して決めないといけない。多数決で決めるようなものではない。その場合には多数決には正当性はない。
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しかしそんなことを言うと、気分が悪い人たちもいるわけです。一致しないといけない、従わないといけない、従わせないといけない、秩序が大事だ、とか思うんでしょう。それが集団の意義だとか思うんでしよう。
馬鹿で下品な多数派よりも、高級で知的で慈愛に満ちて信仰心の深い少数派がいるかもしれないとは思わないらしい。そしてその想像力の限界が多数派の特質でもある。多数派を形成するということは、多数者と自分の誤差を無視して、自分を多数者に捧げて一致させていることだ。集団の中で上質な部分が多数であることは少ないのではないだろうか。幸福な一部の例外はあるだろうけれども、それを除いて。多数派とはたいていそんなものだという前提で警戒して思考しなければならない。繊細で柔らかい個人を踏みつぶしてゆくのが多数者である。
そんなことの延長にいじめがある。
観衆と傍観者がいて初めて高圧的多数派を形成するのではないか。
自分たちの考えはすごく良い考えだけれども、賛成しない人もいるだろう。朝練はすごく大切だと自分たちは思うけれども、遅刻する人もいるだろう。それがだらしないからなのか、抵抗なのか、よく分からない。
しかし「強制力」は権力の快感を産む。多数派が強制力を作り出してしまう。そのような原理も原則もどこにもないのに。多数派であることは、正しく、正当で、他人に強制する権力がある、そのように誤解する。
