計算論的認知科学と現象学・実存主義との根本的対話-1

計算論的認知科学と現象学・実存主義との根本的対話

――「脳の説明」と「人生の意味」はなぜ対立しないのか

この問題は、実は非常に単純な一つの疑問から始まります。


ある患者さんがこう言ったとします。

「先生、私は生きる意味がわかりません。」

すると現代の脳科学者は言うかもしれません。

「前頭前野と辺縁系のネットワークに変化が起きています。」

「報酬予測誤差の異常があります。」

「負の事前確率が固定化しています。」

一方でビンスワンガーやフランクルなら言うでしょう。

「あなたの人生で何が失われたのですか。」

「あなたはどのような未来を失ったのですか。」

さて、

どちらが正しいのでしょうか。


実は両者は違う問いを見ている

たとえば一冊の小説を考えてください。

『坊っちゃん』でも『罪と罰』でもよい。

その本について二人の学者が議論している。


物理学者は言います。

「この本は紙とインクでできている。」

文学者は言います。

「これは孤独と正義の物語である。」


どちらも正しい。

しかし見ているものが違う。


紙とインクの説明だけでは
小説の意味は分からない。

しかし紙とインクがなければ
小説も存在しない。


計算論的認知科学と現象学の関係もこれに似ています。


計算論的認知科学が見ているもの

計算論的認知科学は、

人間を

「情報を処理する存在」

として見ます。


たとえば雨が降ってきた。

脳は予測します。

傘を持っていく。

濡れない。


非常に合理的です。

脳は

予測し、

修正し、

学習する。


この視点から見ると、

うつ病も、

不安障害も、

統合失調症も、

ある種の情報処理の変化として理解できます。


うつ病なら、

「未来は悪い」

という予測が強くなっている。


不安障害なら、

「危険が近い」

という予測が強くなっている。


統合失調症なら、

「偶然の出来事に意味がある」

という推論が強くなっている。


ここまでは計算論です。


しかし現象学者は首をかしげる

ここでミンコフスキーがやって来ます。

そして言います。


「ちょっと待ってください。」


「その患者さんが体験している世界はどこへ行ったのですか。」


彼が見ていたのは、

脳ではなく、

生きられた経験でした。


「雨」のたとえ

例えば雨です。


気象学者は言います。

上空の寒気と湿度によって雨滴が形成された。

正しい。


しかし失恋した人にとっては、

雨は単なる水滴ではありません。


窓を叩く雨音。

灰色の空。

沈んだ心。


同じ雨なのに、

まったく違う世界が生まれている。


現象学者はここを見ます。


人間は物理世界の中に生きているのではない。

意味の世界の中に生きている。


ということです。


ミンコフスキーの驚き

ミンコフスキーは統合失調症患者を観察していて、

奇妙なことに気づきました。

患者さんは、

世界を理解できなくなっているのではなく、

世界との関係が変わっている。


普通の人は、

世界の中に自然に住んでいます。


朝起きる。

仕事へ行く。

友人と話す。

明日の予定を考える。


世界が当たり前につながっている。


しかし統合失調症では、

その当たり前が壊れることがある。


時間が流れなくなる。

世界が遠く感じる。

自分が自分でなくなる。


これは単なる情報処理の異常ではありません。

存在の仕方そのものの変化です。


地図と旅のたとえ

私はよくこう説明します。

計算論的認知科学は

地図

です。


現象学は

旅そのもの

です。


地図は重要です。

現在地がわかる。

道順がわかる。

迷いにくい。


しかし地図を見ただけでは、

山頂の風はわからない。


海辺の匂いもわからない。


恋人との別れもわからない。


人生の重みもわからない。


現象学は、

その「旅の体験」を記述しようとします。


フランクルの問い

フランクルが強制収容所で考えていたのも、

実は同じ問題です。


飢え。

恐怖。

絶望。


これらを脳科学で説明することはできる。

しかし、

それだけでは足りない。


なぜなら、

彼が知りたかったのは


「人はなぜ生き続けるのか」


だったからです。


これは計算論の問いではありません。

意味の問いです。


では計算論は不要なのか

そうではありません。

むしろ逆です。

計算論は非常に重要です。


例えばうつ病。

昔は

「気の持ちよう」

と言われました。


しかし今は、

脳が負の予測に固定されることが分かってきました。


だから患者さんを責めなくて済む。


「怠けている」のではなく、

脳の予測システムが苦しんでいる。


これは大きな進歩です。


しかし計算論だけでも足りない

なぜなら、

同じうつ病でも、

苦しみの意味は人によって違うからです。


愛する人を失ったうつ病。

仕事を失ったうつ病。

老いに直面したうつ病。


脳内では似た変化が起きているかもしれない。

しかし人生の意味は全く違います。


だから精神療法では、

脳だけでなく人生を聞くのです。


本当の対話

ここでようやく本題にたどり着きます。

計算論的認知科学と現象学・実存主義は、

本当は敵ではありません。


計算論は問う。

「なぜその体験が生じるのか。」


現象学は問う。

「その体験はどのように生きられているのか。」


実存主義は問う。

「その体験はその人にとってどんな意味を持つのか。」


三つは同じ山を違う側から見ている。


私が思う最も重要なこと

精神医学の未来は、

どちらかを捨てることではないと思います。


脳だけでは人間にならない。

意味だけでも人間にならない。


人間は、

予測する脳を持ちながら、

意味の世界を生きる存在です。


計算論的認知科学は、

人間がどのように世界を構成しているかを教えてくれる。

現象学は、

その構成された世界の肌触りを教えてくれる。

実存主義は、

その世界をどう生きるかを問う。


ですから両者の対話は、

「脳か、意味か」という対立ではありません。

むしろ、

「なぜその世界が生まれるのか」と「その世界を生きるとはどういうことか」を結びつける試み

なのです。

そして精神療法とは、その二つが最も深く出会う場所なのかもしれません。そこでは患者さんは「脳」でも「症状」でもなく、一人の人生を生きる主体として現れるからです。

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