クジラが集団で岸に乗り上げ、そのまま死んでしまう光景は、見る者に強い衝撃を与える。巨大で、賢く、社会性を持つ動物が、なぜ誰も引き返せず、同じ方向へ進み続けるのか。科学的には、音響環境の変化、地磁気の攪乱、個体間の追随行動など、いくつかの仮説が挙げられている。しかし重要なのは、そこに「愚かさ」や「判断ミス」という道徳的評価は含まれていないという点である。彼らは、自分たちが持っている最良の感覚と、仲間への信頼に従った結果として、死に至っている。
焚火に集まる蛾も同様である。蛾は光に向かう性質を持つ。それは進化の過程で獲得された、夜間の移動を可能にする合理的な仕組みだった。しかし人工的な強い光の前では、その仕組みは致命的な誤作動を起こす。蛾は光に近づきすぎ、熱で命を落とす。ここでも、蛾は間違ってはいない。環境の側が、彼らの認知の前提を裏切ったのである。
人間の集団行動も、これによく似ている。
社会が不安定になると、人は「安心できる方向」を探す。
それは必ずしも正しい方向ではないが、正しく見える方向ではある。単純で、分かりやすく、疑いを挟む余地のない説明。複雑な現実を、善悪や原因と結果に整理してくれる言葉。そこには必ず、光のようなものがある。
人はその光に、一人で向かうのではない。
周囲を見渡し、同じ方向を向いている人の数を確認してから進む。集団で動けば、恐怖は薄まる。判断を分かち合えば、責任も薄まる。誰かが間違っていたとしても、「皆がそうした」という事実が、後から心を守ってくれる。
このとき、人は考えるのをやめているわけではない。
むしろ、よく考えた末に、「これ以上考えない」という選択をしている。疑うことは疲れる。立ち止まることは孤立を招く。だから、人は流れに身を預ける。流れが強いほど、その判断は合理的に見える。
ここで、必ず現れる人物類型がある。
流れの中で、ふと立ち止まり、「この方向でいいのだろうか」と口にする者だ。だが、その声は歓迎されない。空気を読めない、現実を分かっていない、足を引っ張る、不安を広げる。そうした言葉で、彼らは静かに否定的に位置づけられる。
立ち止まる者は、間違っているから排除されるのではない。
流れを乱すから、遠ざけられるのだ。
その結果、流れはさらに速くなる。
医療は効率の言葉で語られ、福祉は負担として整理され、教育は成果と競争の尺度で測られる。それぞれに合理的な理由があり、正しさがある。だが、それらが積み重なった先で、生活は少しずつ痩せ、余白は削られていく。
変化は急ではない。
診察時間が短くなり、支援の条件が増え、説明が簡略化される。その一つひとつは小さく、どれも「仕方がない」と納得できる範囲に収まっている。蛾が一瞬で燃え尽きないように、破綻はゆっくり進む。
そして、いよいよ取り返しがつかなくなった段階で、人は初めて問う。
なぜ、あのとき別の選択をしなかったのか。
だがこの問いは、岸に打ち上げられたクジラに向かって、なぜ引き返さなかったのかと尋ねるようなものだ。引き返せる地点では、まだ「問題」は問題として見えていなかった。
人間は、理性的な生き物だと言われる。
しかし同時に、人間は「正しそうな光」に弱い生き物でもある。その光は、決して悪意の顔をして現れない。安心、秩序、効率、善意――そうした言葉をまとって、静かに人を集める。
本当に危ういのは、誤った選択そのものではない。
誤りが、常識になり、共有され、疑われなくなったときだ。
集団で泳ぐ力は、人間の強さである。
だがその強さは、ときに、誰も叫ばず、誰も抵抗せず、ただ正しい顔をしたまま破滅へ向かう。
そのとき、人は「間違えた」のではなく、「立ち止まらなかった」だけなのだ。
そうした「集団の癖」を利用して、集団を操作しようとする人たちもいる。
操作しようとする人も何かの熱に囚われているし、
操作される側も熱に浮かされている。
さらには非常に冷静に集団を操作しようとする人たちもいる。
その結果破滅したとして、もう、仕方のないことなのだろう。
私は無力感と虚無感に包まれてしまう。
