うつ病の予防
「自殺予防」という言葉は耳慣れていますが、「うつ病の予防」という言葉は、まだあまり馴染みがないかもしれません。自殺とうつ病は深く関係していますが、そこには乖離もあるからです。
うつ病の「早期発見・早期治療(二次予防)」や「再発防止(三次予防)」については古くから研究されてきましたが、学会で「一次予防(発症自体の予防)」が取り上げられたのは、私の知る限りこれが初めてではないかと思われます。今後このテーマが非常に重要になっていく理由についてお話しします。
Ⅰ. わが国のうつ病をめぐる状況
昨年の新聞記事によれば、わが国のうつ病患者は全国で100万人を超え、この10年間で2.4倍に増加しました。報告によっては150万人という説もあります。また、自殺者は1998年から急増して3万人を超え、深刻な問題となっています。
年齢層による変化
2002年と比較した「心の病」の増え方を見ると、特に30代の増加が顕著です。40~50代は減少傾向にあり、10~20代はあまり変わりません。比較的若い層でうつ病が増えていることは、将来の再発リスクや労働力への影響という点でも重要な問題です。
経済的・社会的損失(図3・表1)
うつ病の重要性を示す指標に「DALY(障害調整生存年:寿命・健康ロス)」があります。WHOの資料(2002年)によると、日本においてうつ病による損失は脳血管疾患に次いで2番目に高く、OECD全体では1位となっています。
わが国のうつ病による経済的損失は、2009年の推計で年間約1.7兆円に上ります。
- 医療費:1,700億円
- 欠勤による損失:5,700億円
- 死亡損失(自殺の6割をうつ病と仮定):1兆円
(※米国では年間約7兆円という試算もあります)
受診行動の現状(図4・5・6)
うつ病エピソードを経験した人のうち、医療機関を受診しない人は73.6%に上ります。特に男性は、女性に比べて「身近な人に相談する」割合が低く、「自分で解決しようとする」傾向が非常に強いことがわかっています。これが、受診せず、誰にも相談せずに至る「過労自殺」などの悲劇につながる要因の一つと言えます。
Ⅱ. うつ病の予防活動
うつ病の予防活動には歴史があります。
- 1975年: ローマの国際会議でスイスの精神科医Kielholzが予防活動を提案。
- 1976年: 国際委員会ICPTDが設立。
- 1978年: 日本支部JCPTDが発足し、一般医への啓発を開始。
海外では、英国の「The Defeat Depression Campaign(1992~96年)」やオーストラリアの「Beyond blue(1995~2003年)」がマスメディアを通じて成功を収めました。日本でも2003年から厚生労働省が「地域におけるうつ対策」を本格化させています。
メンタルヘルス介入スペクトラム
予防は以下の3つに分類されます。
- 全域的(Universal): 全人口を対象とする。
- 選択的(Selective): 高リスク群を対象とする。
- 徴候的(Indicated): 軽い徴候がある人を対象とする。
実際の活動では「選択的」または「徴候的」な介入が現実的であり、研究(Beekmanら)ではうつ病を22%(報告によっては50%)減らす効果があることが示されています。
Ⅲ. ストレスとうつ病
うつ病の発症は「ストレス—脆弱性モデル」で説明されます。
- 遺伝的体質: セロトニン系・ドパミン系などの性格関連遺伝子。
- 養育環境: 早期の親との死別、虐待、無視など。
これらが「ストレス脆弱性(素因)」を形成します。そこに、身近な人の死、失業、過労、昇進、離婚などの「ライフイベント(ストレス要因)」や、身体疾患・薬剤の影響が加わることで発症します。
特に、配偶者との死別は最大のストレス要因の一つですが、女性に比べ、高齢男性が配偶者を失った際のストレス値は非常に高いことが指摘されています。
Ⅳ. 予防的介入の実際
効果的な予防のためには、以下のグループへの「選択的予防」が重要です。
- 学校: 大学新入生へのメンタルチェック。
- 職場: 2000年以降、労災指針や労働安全衛生法の改正により、過重労働対策が進んでいます。
- 妊産婦: 妊婦検診から乳幼児健診までの継続的なチェック。
個人のレベルでの一次予防
- 仕事の調整: 仕事量の管理に加え、「裁量権」を持つことや「生きがい」を感じることがストレス軽減に有効です。
- 生活習慣: 睡眠不足の解消、週末の運動、規則正しい食事(朝食など)。
- 認知行動療法的アプローチ: 環境と個人の相互作用を調整する考え方。
- 運動療法: 中〜高度の有酸素運動は、脳内物質(BDNFやβ-エンドルフィンなど)を上昇させ、うつ病の予防・治療に効果があることが科学的に解明されつつあります。
参考文献
- 川上憲人:日本のうつ病—疫学研究の現在 (2006)
- 山藤奈穂子:受診しないうつ病の受診行動 (2006)
- Beekman ATF, et al.: Preventing depression in high-risk groups (2010)
- 日本スポーツ精神医学会編:スポーツ精神医学 (2009)
- 蟻塚亮二:うつ病を体験した精神科医の処方せん (2005)
- 広瀬徹也:重症でなくても入院を考える (2005)
- 徳永雄一郎:自宅療養で遷延化するうつ病治療の危険性 (2005)
Ⅳ 予防的介入の実際 では,うつ病への予防的介入をどうするかということですけれども,選択的予防(selective prevention)を行いやすい集団を集中的にとり上げます。まず学校で,大学新入生。それから職場,妊産婦などです。新入生の精神健康診断というのは,昔東大あたりで始めていましたが,今では全国的に広がっています。否応なしに全員チェックできるわけですね。それから妊産婦では,いわゆる妊婦の検診から出産後の乳幼児健診まで機会があるので,そこでチェックしているクリニックや地域があるわけです。やろうと思えばかなりできるはずです。それから職場ですね。職場うつ病という言葉があるくらい,職場が原因となって起こるうつ病が非常に多いわけで,そこに選択的な予防介入ができるのではないかということです。我が国の職場におけるメンタルヘルスの推進は,2000年から本格的にスタートしたと言ってよいかと思います。その少し前,1999年に,労災の指針が大幅に変わり,ストレス脆弱性モデルが組み入れられました。次いで,予防ということでは,労働者の心の健康づくりの指針(2000年),復職支援の手引き(2004年),労働安全衛生法の改正(2008年)では過重労働による健康障害防止対策として,残業時間が月100時間以上になった人には医師の面接が必要だということまで定められました。実際にそれが行われているかというとそうでもなく,実効性に欠ける面はありますけども,一応,こういった法律があることは悪いことではないわけです。さらに,最近いろいろ話題になっていますが,2011年を目指して,職場の健康診断で,身体疾患特にメタボ予防だけでなく,精神疾患のチェックも入れるかどうかという議論になっています。ただ実際には反対意見もあって,どうなるかわかりません。
いま,職場から発生するうつ病が多いということから,職場のメンタルヘルスについて触れましたけれども,仕事のストレスに関わる要因にもいくつかあります。まず仕事量の多さ,残業時間,さらに責任や締め切りがあるということ。一方,裁量権があるということは,ストレスを減らす有力な方法です。また,自分の生きがいになるような仕事かどうかということも重要です。どんなに睡眠を減らして仕事や研究をしても,本当にやりたいことをやっている時はストレスを感じない,ということは確かです。それから,仲間の支援というのも,ストレスを減らすのに大事なことです。この他,個人のレベルでの一次予防には,ストレス解消法を身につけることです。 本当は一日単位でストレスを解消するのが理想ですけれども,実際にはなかなかできないので,週末に週単位で解消する。睡眠不足の人は寝だめをするとか,運動するとか,そういうことを週末にやるのが実際的ではないかと思います。また,規則正しい生活習慣をつけること,たとえば朝ごはんを必ず食べて行くということも,大事なことになります。 認知行動療法的アプローチが予防にも良いということが世界的には言われています。認知行動療法というのをあまり狭く考えないで,環境と個人との相互作用で重層的に行っていくのが実際的ではないか,ということも言われています。ただ,外来で認知行動療法で保険点数が取れるようになっても,実際にはなかなかできないという現状がありますから,それがどこまで予防に使えるかというところは,わが国の実情としては課題が山積みということになります。
ところで,この予防にスポーツが案外貢献するのではないか,と思われます。スポーツ心理学という分野は昔からありますけども,スポーツ精神医学という言葉はありませんでした。そこに,『スポーツ精神医学』 4) という本が2009年に出たのは,非常に喜ばしいことです。アスリートたちの心理学,「あがり」の研究とかいうことでなく,たとえばうつ病への運動療法というようなことに,目が向けられてきております。そして確かに,治療と予防に運動の効果がある,ということが分かってきたわけです。たとえば,中~高度の有酸素運動がうつ病に効果があると言われます。世の中には,薬嫌いとか医者嫌いとかという患者さんも多いですよね。そういう人に対する治療法としても朗報です。何よりも予防という見地から,非常に実行しやすいということは重要ですね。これは,医療経済的には,非常に安上がりになるということです。運動療法の生物学的な仮説としては,いまのところいろいろなことが言われています。うつ病の治療に関係する脳内物質の動きが,運動によっても起こるということです。もちろん運動には,脳を介した直接効果だけでなく,もっと心理的な効果もあります。激しい運動はとてもできないとおっしゃる方もおられるでしょうが,そういう方には,散歩も非常に効果があるということです。一定時間以上散歩すると良い,ということは最近いろいろな本に書かれていますけれども,運動そのものの効果に加えて,狭窄・萎縮した自我を拡大するとか,比較的早期から実行可能で小さな達成感が得られるということもあります。これをおっしゃっている蟻塚亮二先生5) は,うつ病を体験された方なので,非常に説得力がある言葉だと思います。
それから先ほどの JCPTD でもウェブサイトを利用した啓発というのがありましたけれども,予防については,特にインターネットの利用というのは非常に価値を発揮しそうです。広範囲にアクセス可能で,青少年に浸透する可能性があります。若い人の予防というのは大事なわけですね。そして安い費用でできる。これをもっと使わない手はないということになります。ただし注意すべき点として,他の場合でも同じですけれども,一方向性の情報の誤解が正されないままどんどん広まってしまって,一旦広まったらそれを抑えられないという危険があります。また,インターネットに頼りすぎて,対人的な治療関係を軽視するおそれがあることも,注意すべき点でしょう。
Ⅴ うつ病の遷延予防 以上,本来の意味での一次予防について,かいつまんでお話したわけですけれども,もう一点,うつ病に関しては遷延予防ということが臨床的に非常に大事ですので,少しだけ付け加えさせていただきます。『うつ病診療のコツと落とし穴』(2005年)という本に,私は「重症でなくても入院を考える」 6) という短い文章を書きました。私だけではなくて,不知火病院の徳永雄一郎先生も,「自宅療養で遷延化するうつ病治療の危険性」 7) という一文を並んでお書きになっていたので,非常に意を強くしました。うつ病というのは,外来で治療する人がほとんどですし,そういうものだと思われがちですけれども,案外そこに落とし穴があります。実際に私はクリニックでも診察しますが,患者さんが薬をちゃんと飲んでいるかわからない,それを貯められて大量服薬されては困る,あるいは,処方の変更がなかなかしにくいといった問題があり,短時間の診療で,どうしても症状中心の薬物療法になりがちです。特に遷延うつ病には,心理社会的治療が不可欠ですが,それができない。家族療法や職場調整もできない。休職して家で休んでいる場合,週末は外に出ても,日中やウィークデイは近所の目を気にして外に出られない,散歩にも行けない,というような蛸壺的な治療を余儀なくされている人が多いのです。
