フロイト『トーテムとタブー』第二章

フロイト『トーテムとタブー』第二章「タブーと感情の両価性」:良心の考古学

フロイトの『トーテムとタブー』において、第一章が「近親相姦の禁止」という特定の、しかし極めて重要なタブーを精神分析の光で照らし出したとすれば、第二章「タブーと感情の両価性(Tabu und Ambivalenz der Gefühlsregungen)」は、その射程を大きく広げ、「タブー」という現象そのものの普遍的な心理的メカニズムの解明へと向かう。フロイトはこの章で、ポリネシアの奇習から我々の内なる「良心」の起源に至るまでを射程に収め、人間の道徳感情の根底に潜む、愛と憎しみが織りなす根源的な葛藤を暴き出す。本稿では、この第二章の緻密な論理展開を追い、フロイトがいかにしてタブーという謎を解き明かし、そこに人類の精神史の原型を見出したのかを、3000字の規模で詳細に解説する。

1. タブーという矛盾に満ちた現象

フロイトの分析は、まず「タブー」という言葉そのものが持つ奇妙な二重性への着目から始まる。ポリネシア語に由来するこの言葉は、一方では「神聖な」「聖別された」といった崇高な意味を持つ。しかし同時に、他方では「不気味な」「危険な」「禁じられた」「不浄な」といった忌まわしい意味をも併せ持っている。この「聖」と「不浄」という、正反対の概念が一つの言葉に同居しているという事実こそ、フロイトにとって謎を解くための重要な手掛かりであった。

彼は、民族誌学の豊富な資料を駆使して、タブーの具体的な現れ方を読者の前に描き出していく。

  • 王や首長、聖職者に対するタブー: 彼らは神聖な力の所有者であるがゆえに、極めて危険な存在とされる。民衆が彼らの身体や所有物に軽々しく触れることは固く禁じられ、その禁を破ることは自動的に死や不幸をもたらすと信じられている。王の力は恵みをもたらす一方で、破滅をもたらす恐ろしい力でもあるのだ。
  • 死者に対するタブー: 愛する家族が亡くなった時でさえ、その死者は恐ろしい霊となり、生者に害をなす可能性があると信じられる。死者の名前を口にすること、その遺品に触れること、その所有地に入ることなどが厳しく禁じられる。愛情と敬意の対象であったはずの存在が、一転して恐怖と禁忌の対象へと変貌する。
  • 敵に対するタブー: 戦場で敵を殺した勇猛な戦士は、英雄として称えられると同時に、「不浄」な者として扱われる。彼は共同体から一時的に隔離され、殺した敵の霊を宥めるための複雑な儀式や償いを済ませなければ、通常の生活に戻ることは許されない。憎むべき敵を倒すという正当な行為が、なぜか罪悪感と浄化の必要性を伴うのである。

これらの事例に共通するのは、タブーの対象が持つ強烈な「力」と、それに伴う「感染」の危険性である。タブーに触れた者は、自らもタブーとなり、その危険な力を伝染させてしまう。そしてその罰は、神や権力者が下すというよりも、禁忌を破るという行為自体に内在し、自動的に発動すると考えられている。この非合理的で、しかし絶対的な禁止の体系は、一体いかなる心理的基盤の上に成り立っているのだろうか。

2. 再びの光:強迫神経症という名のロゼッタストーン

この問いに答えるため、フロイトは第一章で用いた手法を再び用いる。すなわち、「未開民族」の集団的な慣習と、現代の「神経症者」の個人的な病理との比較である。フロイトにとって、タブーの謎を解読するためのロゼッタストーンとなったのが、「強迫神経症(Zwangsneurose)」であった。

フロイトは、強迫神経症の患者が示す症状と、タブーの規定との間に驚くべき構造的類似性があることを指摘する。

  • 理由なき禁止: どちらも、その禁止の根拠は不明である。なぜそれに触れてはいけないのか、なぜその行為をしてはいけないのか、合理的な説明は存在しない。
  • 内的な強制力: どちらも、外部からの強制ではなく、内的な不安や恐怖によって遵守が強制される。破ってはならないという強い確信が存在する。
  • 感染と儀式: どちらも、禁じられたものに触れると危険が「感染」するという観念があり、その汚染を浄化するための儀式的な行為(強迫神経症患者における洗浄強迫など)を伴う。
  • 置き換えの可能性: 禁止された対象から、それに接触・連想される別の対象へと、禁止が容易に移動・拡大していく点も共通している。

フロイトは特に、強迫神経症の中核症状である「接触恐怖(Berührungsangst)」が、タブーの本質と深く関わっていると考える。この症状の背後には、精神分析によって明らかにされた力動的なメカニズムが存在する。強迫神経症の患者は、意識の上では道徳的で善良であろうとするが、その無意識の深層には、他人を傷つけたい、汚したいといった攻撃的・性的な衝動(願望)が強く抑圧されている。患者が恐れている「接触」とは、この抑圧された禁断の願望が、接触という行為をきっかけに現実化してしまうことへの恐怖なのである。つまり、禁止されている行為は、まさに患者が無意識のうちに最も強く望んでいる行為なのだ。

3. 解読の鍵概念:「感情の両価性(アンビヴァレンス)」

この強迫神経症の分析から、フロイトはタブーの謎を解くための核心的な概念を導き出す。それが「感情の両価性(アンビヴァレンス)」である。これは、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが提唱した概念で、同一の対象に対して、愛情と憎悪、崇拝と敵意といった、相反する感情が同時に、そして激しく向けられる心理状態を指す。

フロイトによれば、強迫神経症もタブーも、この耐え難い感情の両価性という葛藤から生み出された産物なのである。この概念を武器に、フロイトは先に挙げたタブーの事例を鮮やかに再解釈していく。

  • 王へのタブー: 民衆が王に対して抱く感情は、純粋な崇拝だけではない。その無意識の底には、王の持つ絶対的な権力への嫉妬、その支配への反感、そして究極的には「彼をその地位から引きずり下ろしたい」という強烈な敵意が渦巻いている。この抑圧された敵意(憎しみ)が、意識的な崇拝(愛情)と衝突する。この葛藤を解決するために、心は敵意の方を無意識に抑圧し、その危険性を外部の王自身へと投影する。その結果、「王は危険な存在であり、触れてはならない」というタブーが生まれる。タブーの遵守は、自らの内なる反逆の願望を封じ込めるための防衛機制となる。
  • 死者へのタブー: 愛する肉親を失った時、我々が感じるのは悲しみや愛情だけではない。無意識の領域には、生前のその人に対する不満や恨み、時には(特に病人の介護などで)「早く死んでくれれば楽になるのに」と考えたことへの罪悪感、そして死によって自分が解放されたという安堵感など、およそ口に出すことのできない負の感情も存在しうる。この抑圧された敵意や罪悪感が、意識的な愛情と葛藤し、死者の霊を恐ろしい復讐者として表象させる。死者へのタブーは、この無意識の負い目から自らを守るための装置なのである。
  • 敵へのタブー: 敵を殺したいという憎しみは、その行為を正当化する。しかし、人間として他者を殺害するという行為は、同時に深い罪悪感をも呼び覚ます。殺した敵に対する儀礼的な償いは、この殺害行為に伴う両価的な感情、すなわち憎悪と罪悪感の葛藤を処理するための社会的な仕組みに他ならない。

結論:タブーから良心へ、そして文明の起源へ

第二章の分析を通じてフロイトが到達した結論は明快である。タブーとは、「禁じられた願望と、それを禁じる内的な恐怖(罪悪感)との間の両価的な葛藤の産物」である。人間は、この内的な葛藤に耐えられないため、危険な願望を外部の世界に「投影」し、あたかもその対象自体が魔的な力を持っているかのように見なす。そして、その対象との接触を自らに禁じることで、内なる誘惑から身を守ろうとする。

この発見の意義は、単に「未開民族」の奇妙な風習を説明したことに留まらない。フロイトは、このタブーの心理的構造の中に、我々現代人が持つ「良心(Gewissen)」の原型、その発生のメカニズムを見出したのである。

良心とは、何か悪いことをしたいという誘惑に駆られた時に、内側から「それはしてはならない」と囁きかける声であり、もしその禁を破れば罪悪感となって我々を苛む。これは、タブーを破ることへの内的な恐怖と全く同じ構造を持っている。フロイトによれば、我々の道徳律の最も基本的な命令、例えば「汝、殺すなかれ」「汝、盗むなかれ」といった掟もまた、タブーなのである。これらの禁止がそもそも必要なのは、我々の心の中に「殺したい」「盗みたい」という根源的な衝動が存在するからに他ならない。道徳や良心とは、この反社会的な衝動と、それを抑え込もうとする社会的な要請との間の、永遠の両価的葛藤の産物なのだ。

このように、第二章「タブーと感情の両価性」は、個人の病理現象である強迫神経症の分析を通じて、人類の道徳感情の起源という壮大なテーマに迫る、本書全体の理論的な核心をなす章である。フロイトはここで、文明とは人間の本源的な欲望を抑圧する装置であるという、彼の後年の文化論へとつながる基本的な洞察を提示した。愛と憎しみの葛藤から生まれたタブーという最初の法の上に、我々の良心、道徳、そして社会秩序そのものが築かれている。フロイトは、その礎石が置かれた瞬間の、人類の無意識のドラマを鮮やかに描き出したのである。

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