誤差修正知性のサイクルに入る前の誤差の性質の判定 誤差修正知性

個人の世界モデルは「誤差」に出会う。
理論では、誤差に出会えば、修正するのであるが、
実際には、誤差を見えないもの・あるいは雑音として無視したり、いまは対応しなくていいと放置したり、そうでなければ、今すぐ対処すべき重大な誤差とみなしたりと、
「誤差」に出会ったのかどうか、出会ったとして、どの程度重大かの判断には問題がある。
誤差の性質の判定も、誤差修正知性のサイクルで回すことが原則であるが、誤差修正知性の入り口の判定のことなので、そうもいかない。

「誤差の性質の判定」の一部が、防衛機制として知られているものだと思う。

誤差は誤差として「機械的に」把握して、誤差修正サイクルを回し、そのうえで、「なかったことにする」などの判定をすると言う構図なら、整合性がある。
誤差を「なかったこと」にしたほうが「エネルギーの節約」になるとして、そうだろうか。なかったことにするにはかなりのエネルギーを要すると思う。エネルギー節約原理に反していると思う。
さっさと世界モデルを変更したほうがいい。

それを拒否する仕組みを想定する?

実際の行動を検証してみても、歯がしみるからと言って、すぐに歯医者に行くわけではない。少し様子を見ようと思うのが普通だろう。この場合は、「誤差を無視してよいノイズだと思いたい」という判定になっている。これは誤差を誤差と認知している。

酸っぱいブドウの例で言えば、ブドウが食べられない誤差を、どうせ酸っぱいと言い訳することで解消している。この場合は、誤差修正サイクルが回っているように思える。言語で説明しているから。

しかし、言語にならない部分で、判定前に、無視している場合があるだろうと思われる。それはどのようなメカニズムが考えられるのだろう。

たとえば扇風機の音やエアコンの音は無意識のうちにノイズとして分類されている。

無視してよいノイズと無視できない誤差を選別するフィルターを信用してよいのだろうか。

無視してよいノイズはゲシュタルトで言う背景になる。そこの自動振り分けになっている。

会って話したくない人と、立食パーティで一緒になりそうになった。自分ではその人と出会わずに済んでよかったと思っていた。ところが後で話を聴いてみると、その人はそのパーティで私のことを見かけて、あいさつしようとしたけれども、私の方が気づかずに無視してしまったらしい。
そのような場合、誤差修正サイクルに入る前のフィルターが働いたのか、誤差を認知したけれども、無視することを敢えて選択したものか、説明が難しい。

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