序文 「セルフ・コンパッション for OCD」

『セルフ・コンパッション・ワークブック for OCD――恐怖に寄り添い、困難な感情を扱い、回復に集中する』

目次

序文

はじめに

第一部 自己批判からセルフ・コンパッションへ

第1章 強迫性障害を理解する

第2章 セルフ・コンパッションの核となる概念

第3章 毎日のセルフ・コンパッション実践

第4章 曝露反応妨害法(ERP)中によく起こるセルフ・コンパッションの障害

第二部 セルフ・コンパッションをもって恐怖と不確実性に寄り添う

第5章 自分の強迫観念と強迫行為を特定する

第6章 セルフ・コンパッションによる曝露反応妨害法

第7章 セルフ・コンパッションによるフラッディング曝露

第8章 セルフ・コンパッションによる想像曝露

第9章 セルフ・コンパッションによる内受容感覚曝露

第10章 セルフ・コンパッションを用いた創造的なERP

第11章 ERP中の強い感情をセルフ・コンパッションで扱う

第三部 回復とその先へ――最も思いやりのある人生を創る

第12章 長期的な回復のためのセルフ・コンパッションERP実践

第13章 OCDとトラウマ、悲嘆、喪失

謝辞

参考文献


序文

多くの序文は、「私が初めて[ここに何かを入れる]という概念に出会ったのは……」という書き出しで始まる。そして私もまさにそうしようとしていたところだ。「私が初めてセルフ・コンパッションに出会ったのは……」2015年だっただろうか?そんなはずはない。何かおかしい。自分自身に親切にし、優しくするという、これほど基本的で根本的なことが、どうしてひとりでに思い浮かばなかったのだろう?それ以上に奇妙なのは、誰も私にそのことをわざわざ教えてくれなかったということだ!他の人は知っていて、秘密にしていたのだろうか?もちろん学校では教わらなかった。それに、ごめんね、父さん母さん、でもあなたたちがその話をしてくれた記憶はない。私はそれについて読んだことがあったし、もちろんクライアントには使っていた。だが、自分自身のために有機的にセルフ・コンパッションを使うというのは、私にとっては……ええと……ブレイクダンスやハーモニカ、一輪車に似た感覚だった――つまり、私にはそのやり方がわからないものたちだ。

ここで、私が本当に、本当に格好悪く見えるちょっとした話をしよう。私はある瞑想リトリートに参加していた――数日間の沈黙、座ること、歩くこと、食べること、そしてセルフ・コンパッションのトレーニング。このセルフ・コンパッションというものは、時に過酷になりうる。私はそこに座り、自分の脳が生み出す雑音に注意を向け、頭の中を絶え間なく流れる判断に非判断的であろうとしていた。私たちはRAIN瞑想(キンバリー・クインランがこの本で見事に説明しているテクニックだ)を行っていて、N:育み(Nurture)の段階になった。先生は私たちに、その瞬間に感じていることを感じることを真に許可するという姿勢を反映した言葉を、自分自身にかけるように促した。これこそがセルフ・コンパッションの本質だ。自分の痛みを見つめ、「あなたがこれを感じているのがわかる――他の人もこれを感じる――あなたがこれを感じる人間であることが許されている」と言うことである。

私は正しい考えが浮かんでくるのを待った。「すべてのものは無常である」とか「仏に出会ったら殺せ」といったような、マインドフルな忍者戦士のような考えを。待って、待って、待った。

退屈して、正しい考えを探すのをやめた。すると、ある考えがとても優しい口調で浮かび上がってきた。まるで優しい手がそっと私の肩に置かれたかのように、それはあまりに誠実で温かく、そしてあまりに大きく響いたので、聞こえたと断言してもいいくらいだった……。

「大丈夫だよ、坊や」

笑いたければ笑ってくれ。私は本気だったのだから。

逆境に立ち向かうこと――自分自身のメンタルヘルスの課題という逆境を含めて――は常に難しい。しかし、そもそも自分自身が課題を抱えた人間であることを許さないなら、それはさらに困難になる。私たちは自己批判や自己罰を繰り返し行う。なぜなら、それが有効であり、より良い行動を促すという錯覚のもとに生きているからだ。それはすべて誤解に基づいている。私たちは「こんな苦しみを経験するなんて、もっと分別があるべきだ」と言いながら、自分の遺伝子、出生地、文化的背景、そして生育環境の大部分が自分とは何の関係もないことを積極的に無視している。卑劣な思考や嫌悪すべき感情に気づくからといって、自分が悪いと思い込む。しかし、それに気づかせる原因は自分とは何の関係もない。より良い思考や感情が湧き上がると考えるから自己罰をするが、罰が実際にもたらすのは、回避により深くコミットさせることだけだ。キンバリーがこれからのページで見事に示しているように、セルフ・コンパッションこそが変化への道である。それは苦しみに直面したときのパワームーブであり、OCDが決して予期しない唯一のものなのだ。

私が結婚・家族療法士の資格を取得した頃にキンバリーと出会い、彼女はちょうど同じ治療センターで臨床時間を積み始めたところだった。私たちはすぐに友人になり、OCDの治療についてユーモアがあり意義深い会話をした。彼女の話では、私は彼女にとって少しだけメンターのような存在だったらしい。しかし私の記憶は、二人が互いに学び合っていたという別の物語を描いている。私の考えでは、誰が良いOCDセラピストになるかを見極めるのは簡単だ。それはOCDを持っているかどうかでも、どれだけ訓練を受けたかや誰に師事したかでもない。OCDを持つ人が何を感じているかを真に理解する能力だ。それによって、この障害の手によって耐え忍ぶ非常に現実的な苦しみを正当に認めつつ、治療ツールを相手に届く言葉で伝えることが可能になる。率直に言って、OCDが人に何をもたらすかをその人の視点から本当に認識することは、少し心が痛む。キンバリーは、最初からずっと、クライアントの苦しみに美しくも心を痛めてきた。彼女は共感と思いやりの定義そのものだ。

私はOCDにおけるマインドフルネスについて広く執筆してきたが、常に課題となっていたのは、経験的な概念の「方法」にどう取り組むかだった。マインドフルネスは私たちが行ったり使ったりするものではなく、瞬間ごとに自分の経験に対して取る視点である。人々は知りたがる:どうすればマインドフルでいられるのか?実際に何をすればいいのか?それは、単に錯視をあるがままに見なさいと誰かに伝えるようなものかもしれない。その指示を段階的なマニュアルに落とし込むのは簡単ではない。キンバリーはこの本の中で、セルフ・コンパッションという概念において同様の課題に正面から取り組んでいる。「わかった、セルフ・コンパッションを持とう。で、次は?」この本はそれを段階的にすべて示している。しかし、それは単に気分を良くする以上のものだ。キンバリーは見事にセルフ・コンパッションのエネルギーを利用し、それを強迫観念や強迫行為に対してどう扱うか――武器にさえするか――を教えてくれる。

OCDに対する最も効果的な治療法である曝露反応妨害法(ERP)は、非人道的で拷問的で表面的だという悪い評判がある。実際は、そのどれでもない。それは力を与え、気持ちを高揚させ、あなたの人間性の核心に触れる、これ以上ないほど深い心理学的な作業となりうる。もちろん難しいが、それは決して残酷さや苦痛そのものを目的としたものではない。ERPの中心には常にセルフ・コンパッションがある。それは、『よし、これは難しい。そして強迫行為は脳に“自分には対処できない”と教える。別のことを試してみよう。強迫行為をしたくなる状況に自分を置き、別の道を選ぶ能力を脳が持っていることをどれほど信じているかを見せてみよう』と認識することなのだ。

結局のところ、私たちを強迫性障害のサイクルに閉じ込め続けるものの多くは、もし自分の恐れが現実になったら、私たちが自分自身をどう扱うと思うかということにある。深く根付いた信念が「自分自身に残酷になり、虐待的に振る舞い、徹底的に自己罰的に接するだろう」というものなら、私たちは常に回避を正当化するだろう。しかしもし代わりに、「何とか対処するだろう」「大切な人に差し伸べるのと同じ優しさで自分自身を支えるだろう」「OCDが言うことよりも自分には価値がある」と想定できれば、強迫行為の多くは不要に思えるかもしれない。不確実性は、夜の森を通る曲がりくねった怖い道のように感じられるかもしれない。しかしセルフ・コンパッションは、その道中であなたが手を握る相手となりうる。この開けた場所を過ぎて、曲がり角を曲がって、あと数歩進めば、そこには希望がある。私たちならできる。

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