キリスト教新聞2013年の記事から
「自由意志」は「無意識的な脳活動の後から生じる」との実験結果を発表し、従来の決定論や自由意志論の解釈に波紋を投げかけた神経生理学者B·リベット。その主張の背後には、ユダヤ教徒としての信念があり、さらにはキリスト教との比較で、キリスト教の倫理体系を疑問視する意図もあった。近年、脳科学と宗教」をテーマに研究する宗教哲学者、星川啓慈氏に論じてもらった。
神経生理学者 B・リベットが切り込んだ原罪
ユダヤ教徒としての信念貫く
星川 啓 (大正大学教授)
ここ20〜30年の脳科学(神経科学)の発展は目覚ましい。読者もご存じのように、書店でも脳科学に関する本や、それを実生活に活かそうという本が山積みされている。
その脳科学は宗教の領域にも進出している。神の啓示を受ける「神の場所」(ゴッド・スポット)は脳のどこにあるのか、瞑想時の脳内の血流はどうなっているのか、瞑想のタイプが異なると脳の部位の発達にどのような違いが見られるのか……。さらに、ユダヤ=キリスト教と深い関係にある「自由意志」も脳科学で取り沙汰されている(芦名定道『脳科学は宗教を解明できる?』春秋社、2012年、参照)。
本稿を執筆するにあたって、私はノートパソコン(PC)を「開けよう」とする。そして腕を動かしてPCを開ける。この出来事において、「PCを開けよう」というのは私の自由意志であり、外部から強制されたものではない。そして、ほとんどの読者は次のように考えるだろう。
まず「PCを開けよう」とする私の意志があり、それに引き続いて、脳から「PCを開けるために腕を動かせ」という命令が出て、それが神経や筋肉などに伝達され、腕が動き、PCが開く。
しかし、事実はそうではなく、これが逆だとするとどうだろう。すなわち、まず脳が何らかの活動をして、その後で「PCを開けよう」という意志が生じるとすれば。ここ数十年の神経生理学やそれを取り巻く諸学問では、この問題が大きな議論を呼び起こし、「自由意志」の存在/非存在をめぐって活発な議論が展開されている。
神経生理学者ベンジャミン・リベット(1916〜2007)は、手首を曲げるなどの随意運動における「自由意志」は、脳内に「準備電位」と呼ばれるものが蓄積されてから約550ミリ秒後に発現する、という実験結果を発表した。この「自由意志は無意識的な脳活動の後から生じる」という衝撃的な結果は、多くの分野の研究者の耳目を集め、従来の決定論や自由意志論の解釈に大きな波紋を投げかけた。自然主義的傾向が強い研究者たちは、これを「自由意志の否定」と結びつけている。
しかし、リベット自身は自由意志の存在を否定するのではなく、「行為を中断する」「拒否権を行使する(veto)」という形において自由意志の存在を肯定した。すなわち、最終的に脳から「PCを開けるために腕を動かせ」という命令が出される前に、約100ミリ秒の時間の余裕があり、この間に「PCを開けよう」とする行為に待ったをかけて中止することができる。これはまさしく自由意志によるものだ、というのである。
リベットは「自由意志は無意識的な脳活動の後から生じる」ことについては執拗な実験を長期にわたって続けている。しかし、行為を中止することについては根拠なくそのように主張している。つまり、「〜しよう」という意志と「〜を中止しよう」という意志とは異質だという主張で押し切っているのである。
当然、多くの研究者には評判が悪く、私も彼のこの態度には納得がいかない。不自然である。世界的な神経生理学者として、「〜を中止しよう」という意志に先行する何らかの脳活動を追究する姿勢くらいは見せてほしいものである。
実は、こうした矛盾と思われるリベットの主張の背後には、ユダヤ教信者としての「自由意志を死守しなければならない」という信念が存在していると推測できる。究極のところで、彼は「決定論/脳一元論的物理主義に屈すると、宗教的倫理や道徳が崩壊する」と考えているのである。
さらに興味深いのは、彼の実験に基づくユダヤ教とキリスト教の比較である。リベットは、モーセの十戒の多くは「〜してはいけない」という禁止規定であるとする。また、イエスより少し前に生きたラビ・ヒレルの「自分がされたくないことを人にしてはならない」という言葉を引用し、これは「寛容な心をもって他人のことには干渉しないようにしよう」という意味だと解釈する。
その一方で、キリスト教のマタイ福音書の「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という一節を引用し、これは「積極的な活動家の意見」だとする。そして哲学者カウフマンの「キリスト教信者の黄金律は、他人の願望と衝突する行為を押しつけることに終わるだろう」という言葉を引く。つまり、たとえ自分にとって望ましいことであっても、他人にとっては迷惑になる場合があるのだから、過度なおせっかいは控えるべきだというのである。
リベットはユダヤ教とキリスト教を比較し、明らかにユダヤ教に軍配を上げる。彼によれば、キリスト教の倫理は脳内で無意識に起動する願望・衝動・意図に関わり、ユダヤ教の倫理は行為を中断するという自由意志に関わる。
マタイ福音書には「みだらな思いで他人の妻を見る者は、すでに心の中でその女を犯したのである」という有名な一節がある。現実問題として、もし「みだらな思いで女性を見る」ことが罪であるならば、ほとんどの成人男性は罪を犯していることになるだろう。しかし実際には、多くの人はそのような情欲を制御し、行動に移さない。
リベットによれば、「運動を伴った実際の行為のみが、意識的に制御可能であり、かつ倫理的に意味を持つ」。なぜならば、現実に他者へ影響を与えるのは行為だけだからである。したがって、衝動や欲望が生じても、それが行為に至らない限り、現実的な影響は持たない。
彼の実験結果を踏まえると、こうした衝動も脳内で無意識に生じるものであり、それ自体は制御できない。しかし最終的な行為の実行だけは意識的に制御できる。したがって、単に衝動や意図を持っただけで人を罰しようとする宗教体系では、生理学的に克服しがたい問題が生じる。
この観点からすると、「原罪」の概念は生理学的な根拠を持つとも言えるが、リベット自身はキリスト教の見解に否定的である。彼は、無意識に生じる衝動は人間の制御外にあるため、実際に行為に及ばない限り責任はないとする。
もっとも、これはリベット自身の解釈にすぎず、キリスト教側からはさまざまな反論がありうるだろう。だが、この議論に関する限り、私はどこかユダヤ教の立場に親しみを覚える。
とはいえ、どれほど自然科学が進歩しても、理論上、キリスト教はそれに適応あるいは抵抗することができる。自然科学とキリスト教が対立的に捉えられるようになったのは7世紀後半以降であり、その後「両者は異なる次元を扱う」という考え方が現れ、現在では両者の対話を促す方向性も見られる。
いずれにせよ、今後ますます発展する科学とキリスト教をはじめとする諸宗教が建設的な関係を持つことこそ、人類の繁栄につながるだろう。もし両者が敵対関係に陥るならば、人類の未来は暗いものになる。両者の対話を継続することが重要である。
